ただ自分の歓びのためだけに生きること/身体的言語を持つ意味
ダンスというものを仕事にするなんて露とも思っていなかった1年前から、それを仕事にしている現在。やっぱりこれは運命だったのだろうなと改めて思っている。
無意識的な流れにのっかりここまで来てしまったけれど、はたしてわたしはダンスというものを通して何をしたいのかを、ずっと自分に問うてきた。
そしてだんだん見えてきたこと。わたしは、健康指導者ではなく表現者でありたい。トレーナーではなく、セラピストやボディワーカーのような立ち位置でいたいのだな、ということがわかってきた。どちらが上とか、スキかキライかという話ではなく、世界観の違いという話として。
今日、ものすごくひさしぶりに1人でスタジオを借りて、ダンスの練習をした。
それはいつもこそこそとまだ暗い早朝に起きて、姿見のある狭い台所の一角で、子どもたちが起きないように小さな音でこっそりと踊っていたのとはまったく違っていた。まだ朝の光が眩しい日中に、広い鏡張りのスタジオに1人きりで、大音量でおもいきり踊るその快感といったら、もう…
それは言葉にするならば、「あぁわたしはやっぱりこういう風に生きたいんだな…」と、心から感じられる時間だった。
誰かに何かを「教えてあげる」とか「健康な体に導く」とかじゃなくて、わたしはただわたしの歓びのためだけに生きたい。そしてそこに、それを一緒に感じて、味わってくれる人がいて、その人の世界も一緒に豊かになっていく。そんな世界で生きていたいのだ。
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タイムリーに借りた、田口ランディと寺門琢己の本『からだのひみつ』。
サラッとしたタイトルとは裏腹に、中にはギュギュッと生きることについてのエッセンスが書かれていて、その内容の濃さに少し溺れそうになりつつ、濃縮された蜜を吸うように一気に読んだ。
『生』とはそのまま『性』のことであり、同時に『死』のことでもある。
けっきょく人は誰だって自分の歓びのためだけに生きることを欲しているし、その歓びのことを言葉を変えて『愛』だとか『母性』だとか言ったり、あるいは『快楽』とか『エクスタシー』とか言ったりするのかもしれない。
それはたとえば、ダンスはもちろん、スポーツとか、音楽とか、文章とか、アートといった特別な『非日常的なこと』だけではなく、もっと身近なことで言えば食べること、出すこと、話すこと、呼吸であったりするわけで。だからなにも「歓びを持って生きよう!」と意気込んで生きなくても、自然に生きていれば誰もが日常的に感じていることなのだと思う。
文中にある、「困ったときは、心じゃなくて身体に聴いてみる」という言葉が印象的だった。
こうして何年も文章を書き続けているように、わたしはついいつもなんでも『言葉にすること』にこだわりがちだし、だからこそ人にも同じことを求めてしまう傾向にある。わたしほど極端ではなくても、女性というのは性質上男性に比べて言葉にかける比重が重い人がおおいのではないだろうか。
しかしその一方で、性質上生理や妊娠や出産をともなう女性の身体は、だからこそある一定の年齢で『身体の言葉』を聴こうとする感覚に目覚めようとするものなのかもしれない。そしてわたしがダンスを必要とするのも、そこにヒントがある気がしている。
心に聴こうとすることは、そのままそれを言語化することを求めることにつながるけれど、身体に聴くことはそうではなくて、感覚的なことである。
人と人がコミュニケーションを取り交ざり合おうとするそのとき、言葉より前の、ちょっとした仕草や目線、声の質、体温、そしてなによりその人の在りかたそのものが、『身体の言葉』を語っているのかもしれない。
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「自分の歓びに生きる」というキーワードが頭の片隅に浮かんでから、なぜか猛烈に聞きたくなった、のあのわの『ゆめの在りか』。
このまるでエンドロールのような曲が彼女のデビュー曲だというのだから、圧巻である。まるで生まれたての子どものように歓びを爆発させたような歌声が好き。
そう。デビューしたてとか、関係ない。
誰もがただ自分の歓びのために生きていいんだ。
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