
とことん“イヤな奴”になりたくなるとき
人はだれしも、『あかるく・たのしく・心豊かに』生きたいと願うものなのだと思う。
でもその反面、自分のなかの糸がフと切れると突然、『くらく・フキゲンに・生きぐるしく』生きたい、と思うときがあるのではないだろうか。
それはほとんど欲に近いような感覚で、いちどそこに落ちると、そこからなかなか抜け出せない。
むしろみずから進んで“イヤな奴”になりに行ってるときが、時々ある。
今日がまさに、そんな日だった。
家にたどり着いた瞬間に泥のようにぐったりとして、這いつくばるような気持ちでお弁当やら着替えやらがパンパンに入った小さなリュックと子どもたちを玄関まで運んだ。
もう家事も育児も一切やりたくなかった。
子どもとともに暮らしていると、それ以前にもまして顕著に、生活の変化がこま切れで起こる。
離乳食がはじまったとき、歩きだしたとき、離れてあそべるようになったとき、保育園に入ったとき・・・。そのすべてにともない、日々の生活も変化していく。
その変化はささいなときもあるけれど、ときには生活がまるごとひっくり返るくらい大きく変わるときもある。
そしてわたしは、その変化になれるのが超絶ニガテなようだ。
登園拒否やらコロナ自粛やらいろいろを経て、わが家の娘と息子は今日から幼稚園に通うことになった。今日から数日間は、慣らし保育のためにわたしも園生活に同行することになる。
迷いに迷ってきめた、わが家から車で30分以上かかる幼稚園への入園。
ほんとうはすぐ近くに公立の保育園もあるのにあえてそこに決めた理由は、シンプルにそこがものすごくステキなところだから。
これからのその幼稚園との新しい人とのつながりや体験をおもうと、ワクワクすることばかりだ。
いや、それでも、それにしても、今日はほんとうにつかれた。
ここに至るまでにはほんとうにいろいろな葛藤があり、そこを経ての今日という日はわたしにとって、ただ階段をワンステップ登ったような軽いものではなく、断崖絶壁を登りきったようなきもちである。
ただ、それを感じているのは家のなかでわたしだけで、当の子どもたちも、そして夫も、どこふく風だ。
まるできのうと今日とはなにも変わっておらず、ただいつもの日々に“幼稚園”というあたらしい絵の具がポタリと1滴くわわっただけのような、そんな1日だった。
けれど、むしろそれくらいでよかったのかもしれない。
入園式も入園のお祝いもなにもなく、ただきのうから今日へとページをめくるようにさらりと日々が流れたことがなんともわが家らしく、今こうしてふり返るとちょっと笑ってしまう。
これから先もわが家はきっとこんなかんじなのだろう。
笑ったり泣いたりスネたり怒ったりしながら、大きなことも小さなこともぜんぶまとめて、大きな時間の流れの中の小さな出来事のうちのひとつとして。また家族のあたらしい1ページがはじまった。
ただそれだけのこと。
ただ、それだけのこと。