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心の満ち欠けを、そのままに。
昔から、感情の振れ幅が大きい人間である。
いちおう一社会人として、外から見てそこまで明らさまにはならない程度にはコントロールできているとは思うのだけど。
HSPーHighly Sensitive Personー
「ひといちばい敏感な人」とも訳される。
最近よく聞くこの言葉に自分が当てはまるとは、露ほども思ったことがなかった。“Sensitive”ー敏感ーという言葉そのものが、私というパーソナリティを表す言葉からかけ離れている、と、思っていたのだ。
…息子が登園拒否をはじめるまでは。
他の子が平気でいることに、強く反応する。
特定の場所を異常に怖がる。
髪の毛を切るとなると、パニックを超えて発狂状態になる。
息子のこれらの特徴がどこから来るのか、ずっと謎だった。
特別神経質な子ではない。むしろ基本的には穏やかで、のんびりしている子だ。ただ、ある特定の事柄に強く反応するのだ。
「私の愛情不足だったんじゃないか」とか「ちゃんと見れてなかったんじゃないか」とか。登園拒否をしはじめた当初は本当に何度もそこをグルグルとした。
その悩みの過程のなかで出会った友人から聞いた、HSCーHighly Sensitive Childーという言葉。
友人の娘さんがそれに当てはまるらしいという話を、何気なく聞いていた。その特徴、傾向、性格…ん…?それは…うちの息子にも当てはまるのでは…?
教えてもらった本をすぐに読んでみた。
その本を読みながら、なぜだか泣けてきたのだ。
あぁ、これは、息子のことであり、わたしのことだ…
Highly Sensitive Childと、Highly Sensitive Person。
それはChild(子ども)とPerson(大人)が違うだけであり、根本的な気質は変わらないのだ。
もしもこのことをわたしの母が、私が子どもの頃に気づいてくれていれば。
もしも私のこの性格が、私が怠けているわけでもなければワガママなわけでもなく、もともと持って生まれた気質なのだということに気づいてくれていれば…
そう思うと、後から後から涙が出てきた。
否定しないでほしかった。
治そうとしないでほしかった。
そのままを受け入れてほしかった…
持って生まれた、ただの気質なのだ。「いい」とか「悪い」とかではなく、「治る」とか「治らない」とかでもなく、大人になってもずっと続くもの。
私はずっと、感情を一定に保てない自分を否定してきた。
セルフコントロールができない自分、平均的にならせない自分を責めていた。
低迷期が来るたびに、いかに“上がれるか”を必死に模索し、「自分と向き合わなければ」とひたすら原因を探してモンモンとしていた。
“いい自分”しか、表に出してはいけないと思っていたのだ。
しかし、内側を覗いても、そこにはなにもないのだ。
「なにもない」、それ自体を受け入れることで、自然と現状を俯瞰して見れるようになってきた。
絶望するのではなく、否定するのでもなく、ただボンヤリと見つめること。
少しばかり先に進んでしまった体に、心が追いつくのを待つように。
最近はあまり開いていないけど、ただ本棚に置いてあるだけで安心する、お守りのような本。「好きな本はなんですか?」と聞かれたら、かならず3本の指に入るこの1冊。
星野道夫のエッセイ、『旅をする木』にかかれている一節で、こんな話がある。
アンデス山脈へ探検家に同行したシェルパの話。
考古学の発掘調査に出た探検隊が、大きなキャラバンを組んで山岳地帯を旅していた時のこと。
荷物を担いでいたシェルパの人々が突然、一斉にストライキを起こしたのです。
どうしても動こうとしないシェルパの人々に困った探検隊は、日当を上げろということなのかと思い、「給料をあげるので動いてくれ」と頼みます。
それでもシェルパの人々は耳を貸さないので、隊員がシェルパの代表にどうしたのかたずねると、彼はこう言ったのだそうです。
「私たちはここまで早く歩きすぎてしまい、心を置き去りにして来てしまった。心がこの場所に追いつくまで、私たちはしばらくここで待っているのです」
自分の中に治すべき原因があるわけではなく、ただ少しだけ体が先に進んでしまっただけ。
そう捉えることで、周りも、現状も、自分も、否定することなく生きれるんじゃないかな。
お花のお志事をしている友人から、思い掛けずいただいた贈り物。
ふわふわのたんぽぽの綿毛が入った、手作りの置物。
どこかで誰かが自分のことを想ってくれている。
それだけで、救われるよね。
心の満ち欠けを、そのままに。
豊かな感受性を抱きしめながら、人も自分も否定せずに生きていきたい。