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023. 音楽的な存在としての人という生き物
人はみんな誰だって、それぞれの音楽を奏でている。「音楽が好き」とか「きらい」とかいう話ではなく、人は誰だってみんな音楽的な存在なのではないかと思うのだ。
そしてどんな人でも、最終的には「音楽的なもの」に回収されていくのではないかと思っている。
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勉強もできない、運動もできない、人ともうまくやれない。
なにをやってもダメなことばかりだったわたしが、唯一子どもの頃から好きだったのが音楽だった。
「将来は音楽の先生になりたい。」そう書いた手紙を、当時の小学校の先生にわたしたこともあったくらい、音楽が大好きだった。
音楽と一緒にいるときだけ、わたしはわたしであれたし、そのときだけ素直に心を開くことができた。
特別なにかができたわけではない。
音楽の学校の出身者でもなければ音楽家なわけでもない。
誰も知らないマニアックな曲を特別知っているというわけでもない。
売れないインディーズバンドの応援に入れ込んでメジャーデビューまで支えたという経験もない。
小学校2年生から習いはじめたピアノは一向にうまくならず、先生にはいつもしかめ面で怒られていた。ピアノの時間がイヤでイヤでしかたがなかったのに、母が怖くて辞められなかった。6年生になっても楽譜がよく読めず、結局今でも、ドレミファソラシドくらいしかわからない。
それでも音楽が好きで好きで、何かに迷ったり見失ったりしたときはいつも、結局音楽的なものに引き戻されてきた人生だった。
「このときにはあの曲があった」とか「この曲が好き」という話ではなく、わたしにとっての音楽は、生きることそのものなのだ。
今でこそダンスを仕事にしたり、ときどき人前で歌ったりしているわたしだけど、ここで言う「音楽的生き物」というのはそういう具体的な話ではなく、たとえば日常的にはあまり音楽は聞かないとか、それとは無縁の暮らしをしている人にとっても、音楽というものは本来もっともっと本質的なものなのではないかと思っている。
「それってつまりどういうこと?」と思わせてしまうかもしれないけれど、カッコつけてわざとわかりずらく書いているわけではない。
わたしにもまだうまく言葉にできなくて、ただただ感覚的にそう思うのだ。
ここで書いている言葉もわたしにとっては音楽だし、音楽的な言葉でありたいといつも思って書いている。
そしてダンスだって結局は「なにを踊るか」「どう踊るか」ではなく、もっと本質的なもの。
「あの人はどうしてあぁなんだろう」とか「わたしってどうしてこぅなんだろう」と考えているとき、人はアタマで物事を考えようとしているけれど。
本来の人という存在はそんな理論ではなく、もっと音楽的存在なのだと思う。
そう捉えると、もっとやわらかく、より身体的に物事を感じることができるのではないだろうか。