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冬の海。 言葉のお守り。

「海行こう」と言って海に連れ出し、着いて1時間もしないうちに「もう帰ろう」と言って連れ戻す。あぁ私って、なんだかなぁ。

たとえ真冬であろうと、海を目の前にすれば入りたくなるのが子どもという生き物だ。びちょびちょになるであろうことくらい初めから予想がつくことであったハズなのに、荷物が重くなるからと着替えを持ってこなかったのは私だ。それなのに、猛然と海に浸かりキャッキャキャッキャと楽しそうにしている息子に向かって、「もう帰るよ!」「それ以上奥に行かないで‼」と大きな声で言う私。

それ以上奥に行ったら…次の波で足をすくわれたら…。濡れるということ以上に怖かったのは、もしかしたら溺れるかもしれないという恐怖心だった。友達と一緒だといつもより気持ちも大きくなり、慣れない海でもお構いなくどんどん奥に入っていく息子。一緒にいた友達は皆子連れで、もしもの時に助けられる人はいない。私は下の娘を背負い、楽しそうに遊ぶ息子をヒヤヒヤした気持ちで見ていた。波はおだやかで、浜には気持ちのいい風が吹いていた。

1度や2度言ったくらいでは当然ながら耳に届かない。こちらに戻ってきては、何度も何度もまた海の方に向かって駆け出す息子。私のボルテージは段々上がっていき、終いにはほとんど叫んでいるような状態だった。

当の息子は「もっとあそびたかった‼!」と大泣きしている。そりゃぁそうだよね。母ちゃんに海に行こうって言われたから来たのに、すぐに帰ろうなんて言われてさ。ホント、子どもって理不尽だよなぁ。

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「もっとおおらかでさ、“イイ母”になると思ってたんだよね、私。周りからそう言われることもよくあったし。こういう時もさ、どんなにドロドロのびちょびちょになっても笑顔で見守っていられるような、そんな母。でもさ、現実は全く逆だったよ。」そんな話を冗談混じりに友達にした。

大泣きされたりグズられたりすると3秒後には「あっそう。母ちゃん先に帰るから。」という言葉が口から出ている。母歴が長くなるにつれ高まると思っていた忍耐力はむしろ反比例するように弱まり、ちょっとしたことでもすぐ「やめて」と言っている。多いと1日20回近く言ってるんじゃないかな。

ーーそうだよね。わかるわかる。みんなそうだよ。私たちみんながんばってるよ。ーー
そういう言葉が母同士の会話ではよく飛び交うし、私もよく人に掛ける言葉だ。それらはすべて優しさだし、ねぎらいだし、おたがいに対するエール交換であることもわかっている。わかっているけれど、それだけで終わりにしたくないというのもまた本音だ。

「うん。そうだよね。わかる。…でもさ、明美は自分で思ってるよりずっとできてると思うよ。」という言葉が友達から返ってきた。

できてる?私が??

意外すぎるその言葉に、一瞬呆気にとられた。

その友達とはもう10年以上の付き合いになる。最近は数年に1回くらいしか会っていなかったけど、会うといつも「あぁ、私はこれでいいんだなぁ。」と思わせてくれる大切な人。

そんな友達に言われた一言に一瞬呆気に取られ、同時にお腹の底がじんわりと温かくなるような、心がふにゃっとするような感覚に包まれた。

“できてる”

友達が言ってくれたその言葉の意味はきっと、誰かとの比較対象としての“できてる”ではなくて、私が私としてできている、という意味なのかな、と、ボンヤリと思った。

そうか。私、できてるのか。

冬の海の水は確実に冷たくて、それなのに浜には穏やかな風が吹き、太陽の光がポカポカと暖かかった。

「おしりが ちゅめたくて あるけない。」という息子に、海から駅までの途中にあった古着屋さんでちょうどいいサイズのズボンを買った。試着室でそのまま着替えさせてもたっらホッとしたのか、帰りの電車の中では私のヒザにもたれ掛かり、ぐーぐーと満足げに寝息を立てている。

友達がくれた言葉がお守りのように私の中に灯り、少し軽い足取りで家路に着いた。



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