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[翻訳#2]キャサリン・マンスフィールド「カナリア」(1922)

カナリア

The Canary

(1922)
キャサリン・マンスフィールド



……ほら、その玄関のドアの右のところに大きな釘があるでしょう? 今でもまだそこに目をやったりするのは難しいんだけれど、それでも外してしまう気にはならない。きっと自分がいなくなった後にもずっとそこにあったんだって考えたいんだと思う。隣の部屋の人たちが「きっとどこかその辺にカゴが吊ってあったんでしょうね」なんて言っているのが聞こえたりすると、彼の存在が完全に忘れ去られたりはしていないんだと思えて、なんだか慰められるような気がする。

……どんなに素晴らしい歌声だったかなんて想像もできないでしょうね。ほかのカナリアのさえずりなんかとはまるで違っていた。別に贔屓目で言ってるんじゃない。窓のところにいるとね、外を通りかかった人が足を止めて耳を澄ませたり、バイカウツギのそばの柵にもたれてしばらくのあいだ聴き惚れていたりするのなんかをよく見かけた。こんなふうに言うとばかげて聞こえるでしょうけど――でも、もしもあの歌声を実際に耳にしていたなら、疑ったりするはずもないんだけれど――本当にちゃんと、彼はそんな聴衆に向かって一揃いの歌を最初から最後までそっくり歌って聴かせているように、わたしには思えた。

例えば、午後に掃除を終えて上着を着替え、縫い物を持ってベランダまで行くと、彼は止まり木をあっちからこっちへと軽く何度も跳びわたり、わたしの気を引くようにカゴの格子をつつき、まるで本物の歌手がするようにほんの少しの水で喉を潤して、それからふいに歌い出すんだけれど、あまりの素晴らしさに針を置いて聴き入ってしまったもの。なんて言ったらいいのか、うまく言い表せたらいいんだけれど。でも、どんな午後も、必ず同じでね、その歌声の一音一音を理解できるような気がした。

……彼という存在を愛していた。そう、どんなに愛していただろう! この世で何に愛情を感じるかなんて、大した問題ではないかもしれない。でも、何かを愛するってことを、人はせずにいられない。もちろん、小さな自分の家だとか庭だとかにはいつだって愛着を感じたものだけれど、でもなぜだかそれだけでは満ち足りない思いだった。花々はこちらが手をかければかけるだけ驚くほど応えてくれたけれど、それでも心に寄り添ってくれはしない。それから夕空に光る金星を愛した。ばかげた話に聞こえるかしら? 日が沈んだころに裏庭に出て行って、暗がりに沈んだユーカリの木の上のあたりに輝き出すのを待ち受ける。そして姿を見せた星に向かってわたしは「さあ、そこにいたのね」だなんて呟いていた。その最初の瞬間、星はわたしだけのために輝いているように思えたものなの。つまり、こんな気持ちを分かってくれているように思えた――なにか心のうちにある憧れのような、でも憧れそのものではないもののことを。それとも後悔――後悔のようなものと言った方が近い。でも、いったい何に対する後悔だと言うんだろう? わたし身の上には感謝すべきことばかりだっていうのに。

……でもね、彼という存在がわたしの暮らしに現れた日から、金星のことはすっかり忘れてしまった、もう必要ではなくなった。それにしても、あのときのことと言ったら、なんだか変わっていた。売り物の鳥を何羽も連れた中国人が玄関先にやってきて小さなカゴに入った彼を高く掲げると、かわいそうな小さなゴシキヒワたちが羽根を何度もばたつかせていたのとは違って、彼はかすかな消え入りそうな囀りを一声だけ上げた、わたしは思わず、まるでユーカリの木の上に輝く金星を見つけたときのように、「さあ、そこにいたのね」と声をかけていた。あの瞬間から、彼はわたしのものになった。

……振り返ってみると、どんなふうに2人で毎日を一緒に過ごしていたかを思ってなんだか不思議な気がする。朝、上の階から降りてきてカゴに掛けておいた布を取ると、彼はまだ眠たげなかすかな音色の囀りで挨拶をしてくれた。「ネエ、キミ¹! ネエ、キミ!」と言っているつもりなのが分かった。それから外に設えてある釘にカゴを吊るしておいて、うちで暮らす3人の若者²のために朝食の支度をし、彼らがすっかり出払って2人きりになるまでは決してカゴを部屋の中に入れたりしない。それで皿洗いをすっかり終えてしまえば、ちょっとした楽しみの時間が訪れる。テーブルの角のところに新聞紙を1枚敷いて、その上にカゴをのせると、彼は、まるでこれからどうなってしまうんだろうとでもいうように絶望的に羽根をばたつかせて見せる。わたしは「またそんな芝居して」って叱ったものなの。トレイを払って、きれいな砂を敷き、エサと水の容器を満たし、ハコベを少しとトウガラシを半分に切ったのとを格子の間に挟んでやると、もう間違いなく、彼はそんな細々とした手順のすべてをちゃんと理解して感謝しているのが分かった。それからね、彼は生まれつき、この上ないきれい好きだった。止まり木には、ちょっとした汚れがあるなんてことも絶対になかった。それに彼が水浴びしているようすを見たら、どれほどきれいさを保つことに余念なく小さな熱意を傾けているかがきっと分かったはず。水浴びの容器は最後に入れる。入れてしまえば、彼はすぐさまそこに飛びついてくる。まず片方の翼をばたつかせて、それからもう片方、その後に頭をちょっと水につけてから、胸もとの羽毛に水を跳ねかける。台所じゅうに水が飛び散ってしまうんだけれども、彼はまだ水のそばを離れようとしない。こんなふうによく言って聞かせたものよ、「さあ、もう十分でしょう。あとはなんだか見せびらかしているだけみたい」ってね。そうしてやっと容器のところから跳んで離れたら、今度は片脚で立って、くちばしで啄むようにしながらからだを乾かしにかかる。最後にからだをひと振るい、ひと払い、そして囀りを1つ上げた後で、喉元を上に向ける――ああ、思いだしていると堪えてしまうわね。そんなとき、わたしはいつもナイフを順に磨き上げる作業に取り掛かっていた。そうやってまな板の上でぴかぴかに磨いていると、まるでナイフが歌いだしているように感じたものなの。

……いつも一緒にいる相手、その通り、それが彼の存在だった。一緒に時間を過ごす完璧な相手。もしも独りきりで暮らしていたら、そんな相手がどれほど貴重な存在なのかってことがきっと実感できるはず。もちろん、家には若い男の子たちが3人もいたし、毎晩、夕食に集まってきて、たまにはダイニングルームに残って新聞を読んだりなんかしていることもあったけれど。でもね、あの子たちに、わたしの1日のちょっとした出来事を聴いてくれというのも無理な話だもの。なんと言っても若者ですからね。話を聴いてくれる義理もないでしょう? あの子たちにとって、わたしって存在は何でもないんだもの。だいたいね、ある晩のこと、階段のところでわたしのことをこんなふうに言っているのが耳に入ってしまった、「あのカカシ」ですって。別にかまわない。そんなこと、気にしやしない。本当にちっとも。だって、分かるもの。なんと言ったって若者なんだから。どうして気にする必要がある? でもそんなときにね、ああ、こんな晩に自分は決して独りきりじゃないってことがことさら幸いに感じられたことを覚えている。それで、みんな出て行ってしまってから、わたしは彼に話しかけた。こんなふうに言って、つまり、「ねえ、あの人たちがなんて呼んだか知っている、『ネエ、キミ』のことを?」ってね。彼は首を傾げるようにしながら、小さな輝く瞳でわたしをじっと見つめていた、とうとうわたしが笑いだしてしまうまでね。それが彼には楽しかったみたい。

……鳥を飼ったことは? もしもないっていうのなら、きっとこんなのは全部、大袈裟な話だって思うでしょうね。鳥には心がないだとか、取るに足らない冷たい生き物だとか、犬や猫なんかとはまるで違うって、みんな思い込んでいるんだもの。うちで頼んでいる洗濯婦の人もね、いつも月曜日にやってくるたびに、不思議がってこんなことを言ったりしていた、どうして「素敵なフォックステリア」を飼わないのかってことや、「カナリアなんてなんの慰めにもなりゃしないでしょうに」なんてことを。でもそうじゃない。まるで違ってる。ある夜のことを思いだすんだけれどね。とてもひどい夢を見た夜のこと――夢っていうのはとんでもなく残酷なことがあるでしょう――目が覚めてもまだ嫌な気分が抜けていなかった。それで部屋着のガウンを羽織って、水を飲みに台所まで降りて行った。冬の夜で、外はひどい雨だった。まだ目が覚め切っていないような感じだったけれど、台所の目隠しのない窓越しに、なんだか向こうの暗がりがこちらを覗き込んで、じっと見つめてきているような気がしたの。すると、ふいに、とても耐えられないという感覚に襲われた、わたしには、「ねえ、今、とてもひどい夢を見たの」とか、「ほら、あの暗がりから守ってちょうだい」だなんて訴えられる相手もいないんだってことにね。少しの間、顔を覆ってしまわずにいられなかったくらい。そのときに、ほら、かすかな「キミ³! キミ!」って囀りが聞こえてきた。カゴはテーブルの上にあって、掛けてあった布が落ちかかっていたから、細い光が中にまで届いていた。「キミ! キミ!」と、かわいらしい小さな彼がまた囀りの声を上げて、やさしく、まるで「ここにいるよ、ネエ、キミ! ここだよ!」とでも言っているみたいだった。それがあまりにも心地よく慰めるような響きだったから、わたしは泣いてしまいたくなるようだった。

……でも、もう彼はいない。もう決して、鳥を飼うことも、それ以外のどんな動物を飼うこともない。どうしてまた飼うだなんてことができるだろう? 彼が仰向けに倒れ、虚ろな目をして、その爪がきゅっと握られているのを見たとき、もうこの子が歌うのを聴くことはできないのだと理解すると、わたしの中で何かが確実に死んでしまったようだった。まるで彼のいないカゴのように、わたしの心も空しいものになった。乗り越えなければ。きっとね。そうしなければ。どんなことだって、人はいつか乗り越えられるものなんだから。それにわたしは、いつも人から、あなたは明る性格の持ち主ねと言われるくらいなんだもの。本当にその通り。まったく、こうして明るい性格に恵まれたのだから。

……そうではあっても、暗い思いに取り憑かれたり、何かにすっかり――思い出だとかそんなものに耽ったりしないのだとしても、わたしには、人生に何か物悲しいような心持ちがあるのだということを白状しておかなければならない。それが何かを説明するのは難しい。誰もがよく知る、病気だとか、貧困だとか、死だなんてものにまつわる悲しみのことではない。そうではなくて、もっと別の何か。それは確かに、心のうちの深く、本当に深いところに、自分の一部として、何か呼吸のようにそこにある。どんなにへとへとに草臥れるまで働いたとしても、手を止めた途端、はたとそれがそこにあることに、そこで待ち受けていることに気づいてしまう。よく思うんだけれど、みんな同じように感じているものなのだろうか。分かりようもないこと。けれど、これは何か驚くべきことなんじゃないかな、つまり、あの子のやさしくて喜びに満ちたささやかな歌声の下には、まさにこんな――物悲しさ?――ああ、いったいこれは何だろう?――そういうものが、確かに聴こえていたというのは。



訳注

¹ ネエ、キミ

Missus
既存訳では「奥さん」とされている。本稿では、実際のカナリアの鳴き声に近い音と、親しい間柄の呼びかけの表現とを兼ねているようにと思い、原文の1語に対して不細工ではあるけれど、2語の「ネエ、キミ」を充てた。

² うちで暮らす3人の若者

my three young men
下宿人のこと。

³ キミ

Sweet
既存訳では発音をそのままに活かした「スイート」が充てられている。本稿では、「Missus」同様、2つの意図を兼ねたものと考え、また、訳注1の訳語「ネエ、キミ」と一部被るけれど、より語感が軽く、端的な「キミ」とした。なお、「Missus」と「Sweet」の両語の発音はいずれも主にイ段の音とサ行の音とで構成されており、これは小鳥の鳴き声の音の高さや音色の繊細さを表現するための語の選択のようにも思われたので、訳語でも重い音を避け、イ段を意識した。


底本

底本:Project Gutenberg所収『The Doves' Nest, and Other Stories』(1923)所載「The Canary
著者:Katherine Mansfield


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