『この世界の片隅で』一時保護所(その9)M君のこと ~君がながした涙、これからながす涙、ひとりきりの涙~③
前回からの続きです。
前回は ↓ から!
保護所では、通学している子供たちがいる一方で、通学せず、終日保護所で過ごす子供たちもいて、後者の子どもたちは、運動不足もさることながら、自由のあまりない生活に飽き飽きするのがほとんどだったと思う。もちろん、そのために、週末や、職員の数が十分足りている時などは、できる限り、公園に散歩に行ったり、公園で野球をしたりなど、職員が引率して出かけることが通例であった。この外出は強制ではなく、行きたくない子どもは行かなくてもよいことになっていたが、たいていの子どもたちは喜んで参加していた。
夏の終わりに近い日、週末の金曜の午後に、私たちは子供たちと一緒に近くの公園まで散歩に行くことになった。
通常、ばらばらに歩くこどもたちのグループに、何気なく、職員が前後につき、子どもたちが急にいなくなるなどに備えていた。
その日、M君は、何度も列から離れ、職員が目を他のこどもに奪われた際に、全員が歩く道路から離れて歩き、職員が注意すると戻る、などを何度も繰り返していた。
なんかいつもと様子がちがう、と職員は思っていたとは思うけれど、別に急に走り出すわけでもなかったので、注意を払いつつ、帰途についていた。
その時、M君が意を決したように、まっすぐ左折して、私たちとはちがう方向へ再度歩きはじめ、職員が戻るように言っても、背中を向けたまま、今度は戻ってくる様子がなかった。
どんどん離れていくM君を、他の職員に言われ、私が追いかけ、M君に追いつくと、M君は、『なんで来るんすか!!』と、悲しそうに言った。もう一人の男性職員が私たち2人に追いつくまで、私たち2人は、道路わきにいたのだが、M君は逃げようとしなかった。
男性職員Cさんが私たちに追いつくと、そのCさんは、『なんで逃げなかったの?』とM君に尋ねた。そうだ、全力疾走したら逃げられたのだ。私の足などM君が本気で走ればいくらでも置き去りにできたのだ。M君は言った。『そんなことしたら、変な人って思われるじゃないですか!』職員Cさんはこの道40年くらいの大ベテランだったのだが、M君に、『そうか、Iさん(私)のことを考えてくれたんだな』と言った。
私のこと?そうか、M君は、私と一緒にいたときに逃げた、と言われたら私が困ると考えてくれたのか。
こんなに自分が切羽つまっている時までも、他人のことを考えてくれるのか、この15歳の少年は。そう思うと、胸が詰まった。
それから、M君は、私とCさんと3人で歩いた。しばらくして、他のこどもたちの中で
列を離れようとする子供もいて、私はそちらの列に加わった。このまま早く保護所にたどりつきたいな、と思っていたら、M君はまた、道をそれてしまった。Cさんがつかさずついて歩いてくれたのだが、その速度はどんどんはやくなり、私も追いかけたのだが、2人は見えなくなってしまった。
そのことを他の職員にも知らせ、急に私たち一行はざわついたのだが、他の子どもたちをとにかく安全に保護所まで連れて行かなくてはならず、とりあえず、私ともう一人の職員の方が2人を探し、残りのグループを保護所に返すことにした。
脱走することはよくきいていたが、実際にそうなったら、M君はどうなるのだろうか?
もしかしたら、祖父のところに帰りたい希望を出していたけれど、それも駄目になるかもしれない。そう思うと、ここでM君を止められなかったのは、彼にとってかなりのマイナスになるのではないか、と私は思ってしまった。
しばらく、町中を走り周り、それでもみつからず、私も保護所に戻った。職員CさんとM君はまだ帰ってきていなかった。
所長と他の職員がM君について話しあっているところであった。
所長などは、数十年この仕事をしていて、慣れたもので、とても落ち着いていて、『まあ、仕方ないね』と言っていた。
私は汗だくのまま自分の席に戻り、M君が立ち止まった際、もっと話をきくべきだったんだ、と後悔した。その時、私は、M君の背中をさすり、『帰ろうか』と言ったのだと思う。でも、本当は、私が言うべきだったのは、帰ろうとかそんなことではなく、M君の逃げ出したくなるその心情を訊くべきだったと思った。きっとM君が求めていたものは、話をきいてもらうことなのだと悟った。それからしばらくして、金曜日の夕暮れが濃くなった頃、夕刻の全体会議をしている際に、M君はC職員に連れられて帰ってきた。
重苦しい空気の中、M君は、自室に入り、しばらくして所長も入っていった。
あーよかった、とは思ったものの、M君の心情を思うと、何もしてやれなかった後悔は重苦しくのしかかっていた。
所長はM君の部屋にはいっていたが、しばらくして出てきて、職員に、『泣きじゃくって話にならないんだよ』と言った。
普段、他の子どもたちになじんで、ともすると下ネタで盛り上がり、大笑いをするようになっていた、子どもたちの中心にいたM君が、暗い部屋で一人泣きじゃくっている姿を想像した。たった15歳で、なぜこんなに彼の背中に重責がかかっているのかと、M君の運命にやり場のない気持ちがわいた。
母親が実のお父さんと離婚して、せまいアパートに、兄弟たちと引越しした時、『せまい部屋にいて、でも窓のガラスがうまく閉まらなくて隙間があいてて、普通に息をしたら昼間でも白く見えるような部屋にいたんですよ』と言っていたM君を思った。それでも母親のことを思い、下にいる兄弟のことを想い続けるM君が、またここでも泣くことになるのかと、これ以上に不公平なことはあるのだろうかと思ってしまった。
その日、どうしてもM君の顔を見ずには帰宅する気になれず、しばらく待ち、夕食の終了時間ギリギリに部屋からやっと出てきて、夕食を一人で食べ始めたM君のそばに恐る恐る行ってみた。『大変だったね』とか、そんな意味のない言葉しか言えなかった。
M君はひとしきり泣いてすっきりしたのか、キョトンとしたような顔で、ホールのテレビを観ながら食事をつついていた。
私はそれに大いに救われたような気分になり、『また月曜ね』と言ってM君に言った。『うん』とその時言ったM君は、15歳の少年よりも、ずっと幼く見えた。
(次回・『M君のこと最終回』につづく)