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『この世界の片隅で』一時保護所(その8)M君のこと ~君がながした涙、これからながす涙、ひとりきりの涙~②

前回からの続きです。
前回のお話は ↓ から!


M君は保護所に来てからしばらく、3週間くらいは、一定のルーティンを守って生活していた。

通常、8時くらいまでにはみんな(その日、起きることができる子供たち)は朝食をとり、その後、通学する子どもたち、保護所に残って終日16時前まで学習する子どもたちに分かれている。
普通は、保護所に来て2週間くらいは、学校への通学の手続きなどがある為、通学ができず、子供たちは配慮をされて学校を欠席し、その間の課題などは担当を通じて届けられたりしていた。
(その対応は学校や、担任の先生にまちまちで、まったく課題等も届けてもらえない子どもたちもいれば、わざわざ、担任の先生が課題に手書きでお手紙を添えてくれることもあった。私は学習担当だったので、届けられた学習教材を個別にチェックして、何をいつまでにやらないといけないんだろうか、と確認したりしていたので、たまたま手書きのお手紙が添えられていて、封筒にはいっておらず、教材にそのまま添付されていたのを読んだことがある。そのお手紙には、●●君が、保護所に来て、大変な思いをしているであろうことへのねぎらいや、しばらく学校を欠席しなければならないことに対し、●●君が心配しなくていいことなど、学習以外について、とても細やかな心配りがされているお手紙で、私も胸がいっぱいになった。男性の先生の名前であったけれど、ただでさえ忙しい中、手書きでお手紙をくれることが、ただのタイプ打ちの手紙より、本人の心に響くであろうことをよく理解されているのだろうと思った。そして、その手紙を本人に渡した際、本人はじっと読んで、とてもうれしそうに微笑んでいた。それをみて、また私も見たこともない先生に手をあわせたい気持ちになったりした。)

話をM君に戻そう。M君は、しばらく、学校に行きそうな雰囲気もだしておらず、毎朝、朝ごはんを食べた後は、朝9時半くらいに顔を洗いに出てきて、そのままホールの学習机に座り、数学Iの教科書を開いて学習を始めるのがルーティンになっていた。子供たちには、入所すると、学習に参加する初日に、私が仕事をしていた、学習担当員がヒアリングを行って、学年や学習の進度など訊いて確認などをしていた(通常ここでは、本人が使用している教科書が保護所内にあるかどうか、本人が受験などを控えていないか、中間・期末テストはいつか、などを確認したりしたほか、簡単な学習レベルテストを行って、それまでどのくらいの基礎知識があるかを確認していた。中学3年生といっても、中1レベルの学科の知識しかない、または、他の教科はあんまりだけど、歴史だけはとても得意、など、本人の特性にあった学習を進めたいというのが意図であった)。M君にも、来た翌日の午前中、学習の初めにヒアリングをしていた。

M君は、高校1年で、その年の春に入学したばかりだった。県立高校に通学しており、M君本人は『かなり頑張って勉強をした』と言っていた。その時のM君は、高校を卒業したいと言い、そのヒアリングでは特に心配なことも感じなかった。M君は漢字もよく書けた。ただ英語は苦手とのことだった。

学習時間のM君は、特に、話しかけられなければ、誰とも話さないので、私も気になっていたのだが、2週間もしたらまた通学するのだろうと思っていたので、時間の問題で周囲ともなじみ、学校の友人たちにも会えるようになればさらに落ち着くだろうと思っていた。

しかし、である。
2週間をすぎても、M君は通学する気配がなく、さすがに私も心配になり、福祉の職員の方にM君の学校のほうはどうなっているのか訊くと、『よくはわからないんだけど、高校は退学の方向みたいよ』という返答がかえってきた。私はとても焦ってしまった。M君はそのことを知っているのだろうか?それに、退学をする学校の勉強をしているけれど、それって、本人にはとても残酷なことで、それを放置している私は??と不安になり、思い余ってM君に直接に訊いてみることにした。

M君は、私の質問に、静かに、『あーそんな話にもなっている』というような反応で、特にショックということでもなかったようだった。

通常、保護所に入所した子供たちの今後を協議するのは、児童相談所の担当と、子どもたちと保護者であり、保護所の職員は、保護所での子供たちの様子を報告したり、心のケアをしたり、生活の世話をしたり、学習を支援する、ということがメインで、子供たちのその後のことを協議するのは、子供たちの意思と、保護者と児相の担当であった。なので、毎日生活の多くの時間を一緒に過ごし、夜勤のある福祉職員の方々も、面談があった後、しばらくしてからくらいにしか情報が入ってこなかったりするのは普通のことだった。

M君が毎日、数学Iの教科書を眺めているのをみて、私は、これはもうM君にはやらせず、他の実用的な勉強をさせたほうが良いのではないかと考えた。それでいろいろとM君には話をするようになった。
M君は、大家族の長男で、とても妹、弟たちをかわいがっていたようなのだが、継父と折り合いが悪く、M君は祖父の家で別に暮らしはじめたが、そこでの非行行為が収まらず、保護されてきたとのことだった。

M君もそこあたりから、M君からもよく話をしてくれるようになった。ポツポツと、親との面談での不満やそれまでの家庭生活のこと、残してきた妹や弟たちが心配であることなどを話してくれた。本人は、家にいた際には長男で、まだ小さい弟や妹がいるので、家での食事なども担当していたとかで、『1か月で〇〇円で、家族〇人の食費をまかなった』と言って周囲の大人たちを驚かせ、しばらくして、M君の得意なことが保護所内で広まると、福祉職員の方々がM君の得意分野で活躍してもらおうと、調理実習などを計画したりした。当然、M君は大活躍で、そのうち、レシピなども手書きして残したりしていた。M君は裁縫なども得意で、家で弟たちの服の修繕などもしていたみたいで、保護所内でも、子供たちが着る服の修繕などを、ホールの椅子に座り、上手にやってみせるようになった。

M君は、日がたつにつれ、保護所内では子供たちや、職員から一目置かれる、人気者になっていった。これは、M君の、いろんなことを苦労してきた上にも家族を思う優しい人間性があったと思うし、人としての魅力があったのだと思う。

しばらくは、M君は、保護所内の高校生たちとつるんでいるのが楽しいと言って、1か月を過ぎるくらいまでは、機嫌が悪いこともなかった。

がしかし、それとは裏腹に、児相職員や親との面談の回を重ねるごとに、M君の思惑とははずれ、M君が希望していた家庭への復帰、または祖父の家での同居に暗雲がたれこめてきた。保護所での滞在が長引き、幼い妹や弟たち、家族の心配をして、下の妹も児童養護施設に預けられたと聴いたときには涙を浮かべた。そして、それは、家庭内でM君がうけた暴力の話になると、やっぱり、M君は静かにその横顔に涙を浮かべた。M君は、その人の好さゆえに、職員たちからも人気があり、機嫌良く保護所で過ごした日々は長く続かず、ある日、保護所の子供たちをつれて散歩に集団で出かけた際に、それは起こった。

(次回につづく)

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いちあ
チェロで大学院への進学を目指しています。 面白かったら、どうぞ宜しくお願い致します!!有難うございます!!