『この世界の片隅で』一時保護所(その11)通りすぎた少年たち①
保護所で勤務するようになった初日、オリエンテーションとして、児童相談所と保護所の関係や、一度子どもが保護されてから、一体どのくらいの期間を保護所で過ごし、その後、子どもたちがどこに行くのか、等の説明を受けた。基本的には、保護所には2か月滞在というルールがあるらしく、それを超える場合は裁判所に許可申請をしなければならないということだった。
実際、2か月で退所できる子どもは少なく、3か月くらいは滞在していた記憶がある。他方、3週間から1か月半くらいで次の行先が決まったりする子供たちもいたので、保護所の中はいつも新顔がおり、新しい風を運んでくれた。
今回は、そんな短いエピソードを紹介していきたいと思う。
A君のこと
子どもたちの長いエピソード以外にも、いま思い出すと、いろんな思い出がある。
保護所だからといって、悲しい思い出ばかりではなく、子どもたちの性格によって、いろんな子どもの強い生命力をみせてくれることがあった。
保護所には、かなりの確率で、一度保護された子どもが、再度戻ってくることがあった。
家庭復帰してから戻ってきた子ども、里親のもとから、生活があわず舞い戻ってきた子どもなどもいた。
A君は、里親のところから保護所に舞い戻ってきたケースだった。
A君は、軽度の知的な遅れがあり、特別支援学級にいた高校生なのだが、すでに3年生で、卒業したらアパレル関係の会社で勤務することが決まっていた。背が高く、明るい雰囲気で、入所後、2週間くらい学校への手続きで通学できなかった際に、終日私たちと保護所で学習していた。A君は、特別支援学級にいたけれど、勉強も非常に熱心に取り組んでいたし、作文を書かせると、どうして支援学級にいるの?と不思議に思うくらいにすばらしい、自分の考えをよく表現した作文を書いてくれた。
A君は、自分は『学校を来年卒業をして、アパレルで働き、頑張る。就職したら運転免許もとりたい』と話し、学習時間に運転免許の資格試験の模擬問題集にとりくんだりしていた。すでに、アパレル会社では事前の研修などもしていたらしく、研修では、服の畳み方を教えてもらった、と言って、保護所でみんなが各自洗濯をして毎日自分の分を畳んだりしている服を洗濯籠から取り出し、丁寧に畳んでみせてくれたりした。
とても明るく、朗らかな彼がどうして里親の家を出てきたのか、不思議に思い、その経緯を訊いてみた。A君は、他のもうひとりの高校生の男の子と同じ里親さんの家にお世話になっていたのだけれど、その里親さんのところでの生活になじめず、どうしても出たくて、『わざと悪いことをして里親さんから断ってもらうようにしむけた』と言って明るく笑っていた。なかなかの策士のA君は、保護所内でも楽しそうに生活をしていた。私はA君がまだ保護所にいる際に任期を終えて退職してしまったのでA君がその後どうなったのかわからないが、苛立ちや涙や怒りが飛び交う保護所内で、機嫌良く過ごしていたA君のことをよく想い出し、『わざとやっちゃったんですよねぇー』と屈託なく笑っていた姿が目に浮かぶ。A君がその背後に抱えていたものはあまり話をできなかったけれど、社会人として、周囲からその愛嬌の良さを愛されて生きていくにちがいないと思っている。
O君のこと
O君も、A君と同じく、再度、保護所に戻ってきた子どもだった。私はまだ勤務する前にいたそうなので知らなかったのだけれど、O君を知る他の福祉職員の方々は、O君が再度入所してくると知った途端、『えっ!O君また来るの!!!』と、どう考えてみても嫌がっているとしか思えない声を上げていた。その噂のO君は入所するなり、目が隠れそうな前髪をたらし、色も白く、ひょろっとしていた。他の子どもとはちがい、中学校を卒業したけれど、進学は宙ぶらりんで、どこにも所属していなかった。
『O君は急に切れる』という話だったので、私はすぐにはO君には直接コンタクトはあまりとらず、福祉職員の方々がO君をどうやって扱うのかを眺めたり、O君が話をするのに聞き耳を立てていた。O君は1週間ほどは、ひどくネガティブオーラを出していて、『俺なんかどうせ』といった感じで、学習時間に一応、学習をする机のところまで出て来てくれるものの、座って、もう駄目だ、とかそんな言葉を発していた。そんなO君に、すでになじみのある福祉職員の方が手慣れた感じで元気づけたりしていた。なかなか手のかかる子どもが帰ってきたな、、、というのが私の印象ではあった。O君は、母子家庭であったそうで、母親との生活がうまくいかず、母親に手をあげてしまう、とのことで保護されてきていた。O君は最初はそんなでひとりで暗いオーラをそこだけかもしだしていたけれど、次第にほかの子どもたちとも打ち解け、体育の時間などにも参加するようになり、1か月くらいを過ぎるころには、生気を取り戻してきたように感じた。そして、別段保護所の食事の質が良いわけではないだろうけれど、3食きちんと食べるのが良いのか、保護所にはいってから5キロ増えた、などとも言っていた。O君は夕方、通学の子どもたちが帰宅してきて、彼らと一緒にテレビでMVを観て、一緒に歌ったりするのが好きだった。ある時、私に、ある歌手の歌の歌詞を印刷してきてほしい、と頼んできたので、急ぎ検索したら、コピーライトの問題から、コピーができなくなっていた。それでも、O君がMVと一緒に歌いたいんだという気持ちに水を差したくなく、O君のためなら、と手打ちでパチパチ打ち込んでみたりした。ある夕方、O君や、通学から帰宅した数人の高校生のこどもたちが、back numberか誰かの歌だと記憶しているのだが、一緒に歌おうと声掛けをしたわけでもないのに、その歌をみんなで一緒に歌い出したことがあって、私はその姿にとても驚いてしまうと同時に、『そうか、歌っていうのは、彼らにとっては心の支えなんだ』と思い、さらに、1曲の歌が、誰かを支えたり、励ましたりできるんだ、と改めて感動してしまった。私がその曲を作って歌った歌手なら、歌手冥利につきるな、とさえ思った。
O君は、高校受験をしようかと考えていたようなのだが、その意思も定まらず、先が見えないためか、勉強はまったく進まなかった。こんなケースでは、勉強より、履歴書の書き方や、作文の書き方、アルバイトをする際の面接の対応の仕方、などを教えたりしていたのだが、O君の場合は、そのどれにも取り組まなかった。というのも、O君はそんなに長い間保護所にはいない、という方針がもともとあったからのようであった。2か月もしないうちに、O君は、保護所から退所していった。しかし、その退所して行った先が、私はどうしても心配でならなかった。O君の背景がどんなものであるかは、私たちは知らされていなかったけれど、O君は医療措置入院という形で、病院に入院するというものだった。
多くの場合、退所する際は、子どもたちは、晴れ晴れとした顔をしているか、不安だけど新しい生活をしなければと、どことなく決意を秘めて退所していくのだが、O君の場合は、前に進んでいるのか、後退しているのか誰もわからないまま、病院に行ってどうなるというのか、おそらくきっと誰も答えが出せぬまま、O君は出ていった。
しばらくして、職員室で仕事をしている時、所長や、所長の上司が別件で話をしていた。その際、話の最後に、『そういえば、O君がね、、、』という言葉が聞こえてきた。
『病院に到着した際、泣きじゃくったらしいよ』
それを聞いて、私だけでなく、おそらく福祉職員のみんなが、いたたまれない思いでいたと思う。保護所にいれば、自由は制限されても、誰彼となく話をし、話をきいてくれる場所にいた彼が、白い壁しかない、見慣れない病院で、病人の扱いをされて、動揺しないわけがない、と思った。
しばらくして、O君が病院での生活で、音楽が聴きたいから母親にCDを持ってきてくれるように頼んだ、という情報がO君の支援データに記載されているのをみつけた。でも、母親は持って来てくれていなかった。さらにまた時がすぎ、O君が、『保護所に帰りたい。保護所ではみんな話を聞いてくれた、寄り添ってくれた』と言っていると、所長が全体会議の際に噂話のように言った。O君に手をやいた福祉職員は、『いやー、帰るっていっても、帰ってきて、次はどこに出ていくわけでもないし、、、』と複雑そうに口を開いた。
その後、O君がどうなったかは、私が退職したのでわからない。
保護所を出る日、何も気のきいたことが言えず、O君に、「ちゃんとご飯食べるんだよ。風邪ひかないようにね」と言った私に、O君は、悪びれる様子もなく、素直に、「はーい」と言った。
誰を責める訳でもなく出て行ったO君が、周囲の大人に恵まれることを、O君がいつか、安住の自分の場所をみつけていてほしいと、今も、風にも祈るような気持ちでいる。
(一時保護所~通り過ぎた少年たち②へつづく)