『この世界の片隅で』一時保護所(その10)M君のこと~君がながした涙、これからながす涙、ひとりきりの涙~④最終回
前回からの続きです。
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M君は、脱走事件があってから、それまで以上に、自分がいつ保護所を出られるのか、一体どこに自分は行くのか、ということにとても不安を感じていたようだった。
私が福祉職員の方から伺った話では、保護所を出たら、家に帰る、親戚の家に引き取られる、児童養護施設に入所する、自立支援施設に入所する、里親の家にお世話になる、などの選択肢があるようだった。
M君は祖父との同居を希望していたけれど、祖父からは面倒を見切れない、と言われ、祖母からも同様に断られたようだった。自宅には本人も帰ることは希望していないようで、選択肢からはずれていたようであった。残る可能性は、自立支援施設に入る、ということのようであったけれど、そもそも、自立支援施設の数が限られているうえ、しかし、それを必要とする子供たちの数はそのキャパシティを大きく上回り、運良く空きがでるタイミングを見計らわなければならないようだった。自立支援施設は、本人が仕事をしたり、学校に通学したりしている間、生活の場所を提供し、食事なども食べることができ、月にとても安価な金額で生活ができるようだった。その間に子供たちが働いたお金を貯金して、『●●円貯蓄ができたら退所できる』という条件なども、それぞれの自立支援施設で設定されているようだった。
M君は、職員の方々や、私も手伝って、面談の前には家族や親戚に話すことを作文したりしていた。これも、M君をどうにか希望の場所で生活させてあげたいと思う保護所のみんなの気持ちであった。しかし、面談は何度持たれても、M君の思うようには進まず、M君はいよいよ自立支援施設しか行先はないと観念したようだった。
夏前に保護所に来て、いつの間にかM君は保護所の滞在最長記録保持者になっていった。
いつしか、秋が来て、冬になり、年末を迎えようとしていた。
その間、学校も行かずないM君がどうやって保護所内で過ごしていたのか?それは本人にとっても、職員や私にとっても、かなりチャレンジングな課題であった。
すでに学校は退学するしかないM君が、自立支援施設に住みながらどんな仕事につくか。今のままなら条件のあまりよくない仕事で、報酬も期待できないであろう。自立支援施設に入所している間ならまだしも、外で一人暮らしをしたら、たちまち困難に見舞われるであろうことは容易に想像できたのである。
そして、M君が何か大きな変化をとげない限り、その状況は永続する可能性だってあるのだ。福祉職員も私も、おそらく同じように感じていたのだと思うが、M君の今後について、保護所の関係者は総出でいろいろと策を練っていた。
M君は下の兄弟たちの世話をよくみていたことから、保育士の資格をとってはどうか?はたまた、M君が料理が得意であったので、調理師はどうか?いやいやそのかたわら、高校検定を取得した方が良いのでは?など、資格取得の為の参考書を手渡し、日々、M君にとりくんでもらうことが変わっていった。M君は、とても頭の良い子で、やる気さえあれば、きっとどこの大学でもいけそうな印象があった。しかし、自分の行先や生活がどんなものになるのか決定していない間は、心配事が頭をいっぱいにしていたようで、集中は継続しなかった。今思えば、あんな、保護してくれる人もほぼ皆無、住むところはあっても、自分で稼いでいかないといけない、それも退所したらすぐ、というような不安定な状況にあって、よくそこまで資格試験の本に取り組んだり、高校検定の問題に取り組んだりしてくれたものだと感心するのだ。
M君は次第に午前中の学習時間には、後半に遅れて少しだけ参加するか、イライラして廊下に寝転んだりしていた。しかし、なぜか、保護所にその頃、ピアノを弾くS君という子が入所してきて、電子ピアノをたまに弾いていたことからM君も興味を持ったのか、私に教えてくれと言うようになり、気分が良い時には、次第にピアノに向かう時間が長くなっていった。そして頭の良いM君は楽譜の読み方もはやく覚え、両手ですらすら初級の曲を弾くには2か月もかからなかった。
その頃、M君や他の子どもたちも、音楽の基礎的な知識をつけたいと言って、授業の一環で、私が楽譜の読み方、記号やリズムなどを教えたことがあった。8分音符、4分音符、16分音符などの長さを例えるのに、私が黒板に、『ホールケーキがあるとするとね、4分音符っていうのはこのケーキの4等分の1でね、、、』などと説明していたら、M君はじめ、一緒に話を聞いていた子どもたち3人が同様に、『俺、ホールケーキなんて買ってもらったことがない』、『俺も』、『俺もない』と口々に言った。
そうか、ホールケーキ、お誕生日に買ってもらったことがないのか、、、、私は男の子なのに全員がホールケーキという言葉に反応したことに寂しくもあり、どうしてもこの子たちにいつかホールケーキを買って、ケーキに『〇〇君、お誕生日おめでとう!』とクリームで書いたチョコレートのプレートをつけてあげたい、と思った。
『買ってあげるよ!ホールケーキ、今度会ったら必ず買ってあげるよ、ホールケーキ!』と私は咄嗟に言ってしまった。
保護所を出たら、もう二度と会う機会がないであろう子供たちだけれど、いつか、生きている中で道でばったり会ったら、近くのケーキ屋を探して、そこで一番大きなホールケーキを買ってあげたい、そう思ってしまった。その時、彼らがどんないい年になったおじさんたちであったとしても。
時は、何も決まらないまま過ぎ、M君は、苛立ちで、保護所の壁をなぐって騒音を立てたり、『俺いつ出るんですか』と大声で叫んだりしながら、それでも自分を律しようとしていた。
そして、ついにある自立支援施設に入所が決まった際には、関係者全員がほっとした気持ちでいたと思う。
M君は、保護所でのクリスマス会で、中島みゆきの『糸』を一人で弾いた。赤いサンタクロースの帽子をかぶり、最後まで弾き切る姿を、毎日毎日M君と過ごした保護所の職員はどんな気持ちで見守っていたかわからない。ただただ、M君が過ごした大変な日々や、その背負っている見えないものに思いを巡らせて、しみじみとしていた。長く勤務しているベテランの女性職員は、『M君の優しい気持ちが表れてるような音ね』と言った。
M君は年明け、その長い保護所での生活に終止符を打ち、出ていった。
保護所には、子どもたちの支援記録を参照できるシステムがあり、子どもたちの現状を知ることができた。私たちは、M君が自立支援施設でしばらく働き、来年以降に夜学の高校に行きたい、という意思を応援していて、きっとM君はやってくれるだろうと思っていた。
M君が退所し、1か月くらいすると、所長はじめ他の職員もM君のことが気になり、その支援記録が更新されるのをチェックしていたようだった。そしてある日、M君が自立支援施設での生活になじめず、せっかく決まっていたアルバイトの面接にも行かず、自立支援施設から出たい、と言っているという事実を知って、その日、職員は口々に、『M君、大丈夫かね?』『M君、自立支援施設、せっかく入ったのに、、、』などと、挨拶がわりのように言っていた。
結局、M君は自立支援施設を出て、知り合いの人の職場で働くことになったようだった。
どんな仕事かはわからなかったけれど、M君は、自由の代わりに、もしかしたら、経済的には困難な道をしばらく生きなければならないのではないかと、それが心配で、不憫で、たまらなかった。
いまでも、M君のことをよく想い出す。
まだ成人になるかならないかの年齢で働いている姿を想像して、どうやって食べているだろうか、と思う。ただ、人から愛される愛嬌のある子どもであったから、どこに行っても、いろんな人から助けられるのだろうとは願いつつも、M君が、一人で泣く夜も、たくさんあるにちがいないと思い、たまにふと、電車に乗った時に窓から見える空をながめたり、夜道をひとり、空を見上げながら歩きながら、M君も同じようにこの空を見上げているのだろうか、と考えたりする。
脱走未遂のあの夏の夕暮れ、切羽つまっても、他人を思いやる気持ちを持ち続けた少年。あの少年に、この世界の空がいつまでも残酷で居続けるのだろうか?
なんのつながりもなくなったM君の幸せを、わたしはM君がおじさんになったとしても祈り続けるよ、と東京の空の下で思ったりする。
(M君のこと~最終回・了)