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【アーロン・コープランド:伝説の音楽教師ナディア・ブーランジェ特集その4】

名ピアニストのアルフレッド・コルトー(Alfred Cortot)は,オーギョスト・マンジョ(Auguste Mangeot)とともにエコール・ノルマル音楽院(École Normale de Musique de Paris)を1919年に設立。ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger)はコルトーの招きでオルガン演奏,和声学,対位法,さらに音楽史を担当する。

1921年,学生の中にアメリカから来たコープランド(Aaron Copland, 1990-1990)がいた。そしてナディアに出会う。(そのうちナディアの妹リリーの紹介もする予定なので,"ブーランジェ"ではなく"ナディア"と表記する。)

パリに音楽の勉強に行ってさ,作曲のレッスンを受けたんだけど,あまり面白いことは教えてくれなかったんだよね。そしたらさ,クラスメートがNadia Boulangerの和声学のクラスに行ってみろよって言うんだ。

和声学ってさ,ほら,あの古臭い科目だろ。全然興味なかったんだけど,あんまりしつこく勧めてくるもんだからレッスンを見に行ってみたんだ。
そのときに彼女がどういった説明をしていたかは覚えていないんだけど,とにかく凄かったんだよ。

何よりも心を打たれるような彼女の素晴らしい人となり。それから分析の深さ。そして和声学ってのは,今まで考えたことがないくらい生き生きとしたもので,これが全ての基礎になるものだって気づいたんだ。天地がひっくり返るような気持ちだったよ。」(超訳です)

"Nadia Boulanger – The French Woman Behind the American Man," Brandon Cash, March 23, 2015

しかし,その後コープランドは,ナディアの門下に入るべきか悩む。

「女性の先生に習った作曲家などいない。ナディア・ブーランジェに習うことが心配と言っているのではない。自分の名声がどうなるかだ!」

ジェローム・スピケ著「ナディア・ブーランジェ」彩流社, p. 74

そして,コープランドは音楽院でナディアのクラスを受講するだけでなく,プライベートレッスンも受ける決心をする。

ナディアがエコール・ノルマル音楽院で教鞭を取り始めた時はかなりの騒ぎになったらしい。当時,女性がこういったポストに就いたことは無かったからだ。

ナディアは女性として初めて世界的なオーケストラ(ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団ニューヨーク交響楽団ボストン交響楽団など)で指揮をした人物でもある。しかし,女性が指揮をするということで各地で一悶着があったようだ。以下の動画21'12''の説明によると,ニューヨーク・フィルでの始めてのリハーサルでは,団員はナディアを無視。コンサートマスターはスクエア・ダンス(カップルで踊るダンス)の曲を弾き始める始末。

ナディアは「紳士の皆さん,これはとても美しいな曲ですよ。一緒に弾いてみましょう」と促す。リハーサル後,団員は行いを恥じ,ナディアを称賛した。

「女性指揮者に対する偏見は全てのオーケストラ奏者の胸に潜んでいるが,それはマドモアゼル・ブーランジェという巨匠の手にかかると一瞬で吹き飛んでしまう」

ジェローム・スピケ著「ナディア・ブーランジェ」彩流社, p. 174

上記のニューヨークフィルでの出来事がいつのことか,その時に何を演奏したのかは調査不足でよくわからない。少なくとも1939年にニューヨークフィルで弟子のザロフスキの作品の他,モンテヴェルディやフォーレの作品の指揮をし,さらに演奏会後半ではバルビローリの指揮による妹リリーの作品の演奏でオルガンを担当,さらに,モーツァルトの2台のピアノのための協奏曲ではピアノを弾いた記録がある。(到底人間業に思えない。。。)

"1939 Feb 11 / Special / Barbirolli" from Shelby white & Leon Levy Digital Archive


さて,コープランドの話に戻る。彼は3年間パリにとどまり,ナディアのレッスンを受ける。コープランドは,多くの音楽家が集まるサロンでもあったナディアの自宅でのレッスン後にストラヴィンスキー,プーランク,オネゲル,サン=サーンスなど多くの音楽家と出会う。ちなみに,ストラヴィンスキーやプーランクもしばしば作曲のアドバイスをナディアに求めていた。ナディアは,後にボストン交響楽団の指揮者となったクーセヴィツキーにもコープランドを紹介した。クーセヴィツキーはコープランドの作品を頻繁に演奏会で取り上げ,コープランドのアメリカでの名声を高めた。

コープランドはナディアについて,「判断力,原理,知識,洞察力といったものを常に吸収し続け,音楽について知るべきことは全て知っていた」と敬意を払い,生涯交流を続ける。

「マドモアゼル・ブーランジェに出会わなかったら,私の音楽人生がどうなっていたかは想像もつかない。私の想像力に自信を持たせてくれたのは彼女だ。私の音楽の核心にはアメリカ的なリズムがあることを最初に気づかせてくれたのも彼女だった。私は1920年代のジャズのリズムに影響を受けていた。彼女が慣れ親しんでいたヨーロッパの音楽と異なるものだったから,それを新鮮に感じてくれたようだ。それに興味を持ってくれて,ポリリズムが大好きな私の背中を押してくれたんだ。」

"Copland Salutes Boulanger," The New York Times, Sept. 11, 1977

以下の動画は,コープランドが1942年に作曲した「市民のためのファンファーレ」(Fanfare for the Common Man)。完全4度音程をふんだんに使った開放的な響きが印象的。演奏会の開始の合図として作曲されたものだが,開戦を称えるような意図も(本音か戦時下の建前かはわからないが)あったらしい。

この曲を委嘱した指揮者グーセンスは,タイトルに「兵士のためのファンファーレ」「水兵や飛行士のための...」などを提案。コープランドは「荘厳な儀式のための...」などを検討したが,結局「市民のための...」と決定。

グーセンスは,その独創的な名前に相応しい初演日として納税日を提案し,コープランドは「納税日に市民を称えるのは大賛成だ」と言ったそうな。この曲の作曲当初の目的は「演奏会の開始の合図」だったはずだけどね。。。

ちなみにこのタイトルは,その当時,アメリカの副大統領が"The Century of the Common Man"(『「庶民の世紀」の幕開け』)と宣言したのを引用したらしい。曲名にある"Common Man"の和訳も「庶民のための…」の方が良い気がするが,納税日に演奏するには皮肉が強くなりすぎるか。

コープランドの遺灰が撒かれたタングルウッド音楽センターには,この曲のテーマを彫った石碑が置かれている。

タングルウッド音楽センターにある「市民のファンファーレ」の冒頭の石碑

お次は「エル・サロン・メヒコ」。コープランド自身の指揮によるニューヨークフィルの演奏。同名のダンスホールがメキシコシティにあったらしい。副題には「メキシコシティによくあるダンスホール」(A Popular Type Dance Hall in Mexico City)と付いている。指揮をしているコープランドがなんだか可愛らしい。


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jun
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