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1-05「心得なし」

7人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。

前回は屋上屋稔の「実家の犬がわけもなく壁に向かって吠えてました」でした。今回は葉思堯の「心得なし」です。それではお楽しみください!

【杣道に関して】
https://note.com/somamichi_center/n/nade6c4e8b18e

【前回までの杣道】
1-04 「実家の犬がわけもなく壁に向かって吠えてました」/屋上屋稔
https://note.com/qkomainu/n/nb7be7d79f128?magazine_key=me545d5dc684e
1-03 「今日の、または一昨日の、既に忘れ去れた日々の断章」/S.Sugiura
https://note.com/ss2406/n/n4ce740954f41?magazine_key=me545d5dc684e
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 夜ではないことはすぐにわかったはずだ。白日が足を滑らせる音がしたから。しかし黄昏時かと思わされた、なぜならその音は、最初はとても大きな轟だと思われたが、努めて微かな囁きに扮しようと自らを押し殺したその頑なで無尽な努力が間という間の長さに届かずして一面の壁ほどに広い穏やかさを取り戻したのだ。そのような演技をしてみせるのはあの特別な光にだけ課された役目だ。微かなものと一度は認められたその音は次第に増殖していったし、多数のものが発していると思われる喧噪であたりは耐えられぬほど騒がしくなっていった、そんな白い日の中にいた。


 「死に水」

 すっと身を起こし、目を真ん丸にしたまま、いいえ、こちらからは見えていないのだけれど、いつも真ん丸で、眠りについている形を取っている時を除けばもう数十年それ以外なふうにしているところを見ていない。その前へ尖った、けれど長すぎない、朝露のような光沢をもった毛並みの口元を開いで、かれはそう言った。「ヒエイヴ」


 ビー玉や貝殻、くすんだ濃い紺の布やビニールフィルム、あとは呑気に垂れている毛糸と黄色い三角形とマヨネーズといったいろいろなゴミ屑が、ほどよい程度の隔たりをもって落ちているかなりの広さのある部屋を、かれは難なく横切って、というよりも、途中から急かされたかのような急迫した足取りに変わり、一直線にその壁の前に到達した。そこに近づく間にすでにそのような気分が沸き出ていたのだが、壁の中からする無数の会話があまりに息づく間もなく騒がしくしているので、辻褄の判読のできないその振動に溶けて身が無くなってしまいそうな、そんな高揚した気分に逆らおうとも思わずに、しばらくじっとそこにいた。


 コーヒー、コーヒーが飲みたい。その欲望が具体的に現前したのは無隙のうちの突如のことだと思われた。だから、それが実に明らかな連想、関連性に曇りのない素直な引用であると後から気づかされた時は少しばかり落胆した。遥か遠く後方の向かいの壁にもたれかかっている黒い檀の上に青煙が細く上へのぼっていたのだ。その形態は、誠実さをもって言えばむしろ湯気とはとても似つかわしくないものであったが、その速度の切り刻まれた緩慢さは、両者の間の相通をすでに回避できないものに推し進めていった。それほど遠く離れているからか、その湯気の元が見えない。一体どこからあのようにひどく切り刻まれた水滴が上昇しているのだろうか、かれはただそれがどうしても見たい一心で向かいの壁へ向かった。来た時よりも随分時間がかかった、そんなような気がした。半分が薄手のカーテンに覆われた高い窓の向こうの、小さい葉をいっぱいにつけた木々と丘の下に消える小道を通り過ぎて、こげ茶色の小箱とどこかの知っている名前の土地の風俗史の本と私の頭より一回り大きいゴムボールを通り過ぎて、ようやっと檀が目の前に見えた。しかしやはり上昇する水滴の元が、むしろ目の前に来てみると、上昇するもの自体すら視線の中から消えていた。よっぽど高い檀のようだった。

 彼女はその時、地面に圧し潰された白日の中に身体全体で埋もれようと夢中になっていた。だから、その異様な光景の変化の過程は彼女も目にしていないはずだった。けれど、それでも彼女がそれを見ていたかもしれない期待を飲み込むことができず、私は尋ねてみようと考え、そう言った。

 「フオエイヴのですか?」


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次週は12/6(日)更新予定。担当者は親指Pさんです。お楽しみに!

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