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クリスタル・ハーモニー(現:飛鳥Ⅱ)紹介
作家、阿川泰弘氏のエッセイより
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1990年の横浜からハワイのホノルルまでクリスタル・ハーモニーの処女航海に乗船した作家の阿川泰弘氏は、そのエッセイ「七十の教え」の中で当時のことを以下の様に書いています。
太平洋戦争末期、日本郵船会長だった宮岡公男氏は、若い頃、少尉航海士として戦艦大和の沖縄特攻に随行して駆逐艦響で出撃したが、幸か不幸か浮遊機雷に遭遇して航行不能になり、呉港に帰港せざるを得なくなったことがある。
終戦直前の暑い夏の日、「響」が舞鶴の海軍病院船「氷川丸」から給油を受けた際、「響」の将校全員に船から夕食の招待状が届きました。
お湯が溢れるタイル張りのお風呂に入れられた後、食堂に入ると、白いテーブルクロスの上に洋食のフルコースが用意されていた。
食後には、シンガポール土産のブランデーと外国のタバコをご馳走になった。
あまりのありがたさに、宮岡氏は「これはどこの会社の船ですか」と聞いたら、
パーサーが「日本郵船です」と答えた。
第二次世界大戦が終戦し、舞鶴で見た「氷川丸」の白く優美な姿と、船内で受けた信じられないようなもてなしが脳裏に焼きついてい他のである。
宮岡氏が船内で受けたこの世のものとは思えないほどのもてなしは、彼の心に焼き付いて離れないのである。
ー中略ー
宮岡氏が社長の時、「クリスタル・ハーモニー」(現「飛鳥II」)の建造が始まったのです。
日本郵船社長の苦渋の決断
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戦後、「氷川丸」はシアトル航路に復帰したが、船員費用などの運航コストの高騰や大型ジェット機の導入により、旅客航路から完全に撤退したのです。
その後、日本郵船は、コンテナ船、ばら積み船、自動車運搬船、鉄鉱石・石炭運搬船、紙材料運搬船、原油タンカー、LPG(液化石油ガス)船、LNG(液化天然ガス)船などを運航する世界最大級の貨物専業海運会社として成長し、現在に至っています。
しかし、この間、米国市場を中心にレジャー産業としてのクルーズ事業が著しい伸びを見せていたのです。
「クルーズ船を保有しない日本郵船は高級呉服売り場のある三越のようだ」
と感じた社長の宮岡氏は、周囲の反対を押し切って1987年にクルーズ船運航事業への参入を決意したのです。
北米市場向けの「クリスタル・ハーモニー」と日本市場向けの「飛鳥」(総トン数28,856トン、乗客定員600人、1991年竣工)の建造を決意したのです。
「クリスタル・ハーモニー」の主な概要は以下の通りです。
クリスタル・ハーモニー(現:飛鳥Ⅱ)概要
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建造: 三菱重工業株式会社 長崎造船所
受注時期 1988年6月
竣工:1990年7月
船籍:バハマ
総トン数 49,400トン
全長:241メートル
幅:29.6メートル(パナマックスサイズ)
主なエンジン ディーゼル発電機2基、補助発電機1基
出力:47,000馬力、32,800KW、2軸、電気推進式
航行速度:22ノット
最高速度:23ノット
乗客定員: 960人
乗組員数:545名
船長以下、チーフエンジニア、副船長、アシスタントチーフエンジニアのほとんどがノルウェー人でした。
それ以外の乗組員は30カ国以上の多国籍混成で、当社所属の日本人士官は、副船長、副機関長、一等航海士、機関長にそれぞれ限定されています。
ただし、進水当初は一時的に二等航海士、二等機関士などに日本人士官を増員されました。