ロスジェネで転職10回超えでも運とご縁で東京23区に家を買った女の話
2001年:ロスジェネが新卒だったあの頃
ちょうど就職氷河期の頃に大学を卒業したが、そもそも自分が就職氷河期の道中にいることにすら気づいていない、あまりに世間知らずな地方大学の学生だった若かりし頃のわたし。
「仕事、決まんねーなー。どーすっかなー」
くらいなテンションで生きていた。
出版社志望でいくつか東京の出版社を受けたものの全落ちし、大学がある宮崎の地鶏屋のバイトで稼いだ交通費も尽きてしまったのでとりあえず4月に上京して就職活動を開始した。
とにかく何も知らなかったしまだ時代的にWEB環境も整っていなかったため、駅においてある、『GATEN』(今は『GATEN職』だそう)といういわゆる土方とか、現場で体動かす系の求人情報誌を見てしまい、映画とかCMの撮影現場の特撮などに関わる会社のアシスタントの仕事が面白そうだなと思って面接に行ったら、高速道路下の2階建てのプレハブの事務所にパイプ椅子が10個くらい並べられていて、色々説明を受けた。
それで多分「こいつダメそうだな」って落とされたものの、受かった人が辞退したらしく、電話がかかってきた。
「来る気ありますか?」
「え? あ、はい!!」
みたいな感じで「新卒社員」というワードもないその世界に、まずは足を踏み入れた。
22歳:「現場で泣くな!!」という正論が体を突き抜ける
まず、週休1日がデフォルトで、その貴重な休みの日曜日も、現場の状況によっては出勤になったりする。終電で帰れるかどうかが夜にならないと分からないので、片道30分超えの自転車通勤に切り替えた。
良かったのは当時CM出演していた女優さんとかタレントさんに結構会えたことくらいかな???
ある日、出演女優待ち5時間、みたいな日があり、寝てないし、疲れたし、荷物重いしみたいなのが重なり、現場の片付けをしながら、「ふううぅぅ……」と息を殺すように泣いてしまった。なんかもう抑えきれなくなってしまい……。そしたら、現場のボスが、スタジオの隅の隅まで響き渡るような太い声で叫んだ。
「のび太(当時の現場でのあだ名)!!!泣くなー!!!
現場で、泣くなー!!!!!!!!」
「ふぇぇぇ、すみませんー!!!ふぇぇぇ(結局泣いてる)」
情けなくって、でもやっぱり悲しくて。
結局そこは1年も持たず、11ヶ月で体力の限界を理由に辞めた。
25歳:数多のハラスメントの中で一番ひどいセクハラというかパワハラを受ける
1〜1年半のスパンでブラック企業を辞めてはバイトで食い繋ぎ、次の仕事を探すけどまたブラック企業、というサイクルを繰り返していた20代前半。給料が週単位でもらえる(食いつなぐにはもってこい)という理由だけで始めた、警備員のバイトでは、銀座のハイブランドから船の科学館のイベントまで、色々な現場に行かせてもらって楽しかったのに、急に“女子だから”という理由だけで、本部の事務員として働くことになってしまった。
警備会社は、元警察とか自衛官の人も多く、年功序列で男尊女卑な空気が強いのはなんとなく感じていたけれど、ある日背後から吐き捨てるように言われたその一言で、退職を決意することとなる。
「おい、そこの女、ゴミ捨てとけ」
最初は私に言っているのか定かではなかったけれど、後ろを振り返ると、その警備会社の社長のようなおじさんとその部下たちが、私の方を見ていたので、「あ、これは私に向かって言われた言葉なんだ」とわかった。
「嫌です」って言って辞めようかな、とも思ったが、すごくめんどくさいことになりそうなので、「あ、はい」と言って黙ってゴミを捨てた。そして翌日に退職届を提出した。
結局退職の意思を伝えてから退職するまで、上司にネチネチと嫌がらせを受けて結局めんどくさかったので、あの時「嫌です」と言ってそのまま帰った方が良かったな〜と今でも思う。
27歳:女性誌の編集でちょっと自分が好きになる
女性誌の編集プロダクションでは3年ほど在籍した。編プロにしては労働条件が整っており、初めて仕事を3年続けることができた。女性ファッション誌、主に美容雑誌の読み物ページの編集に関わらせてもらった。ここでの一番の収穫は、自分自身がメイクとファッションに目覚めたことだった。
それまで、ほとんどメイクをせず、ファッションもかなり無頓着で、要は相当ダサい女だったのが、まあまあ見られるような外見になったのは大きかった。同窓会に行くと、“わたし”とわかってもらえない程には変化があった。
自分の外見が変わると、周りの受け入れ態勢が変わり(例えば合コンでの扱いやコンビニ店員の態度など)、自分自身のストレスが減ることを知ってからは、毎日しっかりと鏡をチェックしてから外出するようになった(そこから)。
雑誌の編集の世界というのは、マルチタスクが求められる仕事だ。文章が書けるというのは大前提で、トレンドを知る情報収集能力、編集能力、そして何より高い対人能力が求められる仕事だった。そしてそれが、私にとってはとても高いハードルとして重くのしかかった。
まず、愛想笑いができない。その日の現場に馴染めない。嫌いな先輩に対しては嫌いな態度をとってしまう。後に私は軽度のアスペルガー症候群の傾向があることがわかったが、当時は自分がダメなのだと思い込んでいた。
ひとつだけ忘れられないのは、私の企画が編集部で採用された時の先輩の言葉だ。
「あなたの企画が通ったからといって、あなたにやらせてあげるわけじゃないから」
絵に描いたような意地悪な顔でその言葉を言われ、私ってなんでここにいるんだっけ?と思った。文章を書くのは好きだったけれど、雑誌そのものが生き残るのも厳しい世界でボジションを確保するのは、わたしの性格ではかなり難しそうだと思い、WEB制作の領域へとキャリアシフトしていくこととなる。
32歳:母に「アンタは生きてりゃいいから!」と言われる
その後、出版社の派遣社員をしたりしていたが、30を過ぎた頃、このままだと転職貧乏でホームレスになりかねない、という危機感に襲われ、流行りに乗って婚活のようなものをしてみたが、なかなかうまくいかない。
正直、20代は仕事も恋愛もうまく行かなすぎて、自ら消えてしまえば楽になるのではないか、と思ったことは1度や2度ではなかった。
しかし、22歳で上京した年、小さい頃よく遊んでいた同い年の親戚の男の子が自殺してしまい、自分はあの子の分もどうにか生き残らなければ、という使命のようなものがわたしを突き動かし続けてきたのだ。
そして久しぶりに実家に帰り、悶々としていたら、母にこう言われた。
「アンタは生きてりゃいいから!生きてりゃ!!
別に孫の顔見たいとかないから!!」
そっか。でも生きてりゃいいならひとりでもなんとかなるかな。そう思うとすごく楽になって、肩の荷が降りた。そこから、少しずつ人生が良い方向に動いていった気がして、母は強し、母に感謝、である。
34歳:相方と出会い、震災婚をする
まだ婚活アプリもマッチングアプリもない頃、大手ECサイトが運営する結婚サイトに登録して何人か会ったものの、ここでは出会えなそうだと思い、昔の同僚N(男)に連絡して、食事会なるものを開くことにした。同僚Nは男子を5人も集めてくれたので、私も頑張って女子を5人集めて、大人な食事会が催された。
そこにいた、漫画を描いているという2歳年上の男性と、のちに結婚することとなった。食事会の後は4人でご飯に行ったぐらいだったのだが、東日本大震災を気に連絡し合うようになり、そこから付き合うことになったのだ。
もともと男性全般に苦手意識があり、付き合っていても本音を言えずに気を使いすぎて疲れて別れる、ということが多かった私にとって、こんなにずっと一緒にいてもストレスなく、何より会話が続く男性というのが初めての存在だった。
ふたりで初めて食事した後に行った、深夜の中野坂上のジョナサンで話が盛り上がり、頭の後ろからなんかデカイ声が聞こえるな〜と思ったら、それは高らかに笑う自分の声だったのだった。
「あ、この人は絶対に捕まえておかないとダメだな」
と思ったことを今でも覚えている。
36歳:派遣切りされたのに一部上場企業に就職が決まり年収が200万円UPする
34歳で結婚したものの、なんとか“派遣”から“正社員”になりたいという強い希望があった私は、1年ほどで正社員になれそうだという大手化粧品会社の子会社である印刷会社の制作部門に派遣社員として務めることになった。
しかし1年が経ちそうな頃、派遣会社の担当営業に、「正社員になるのは難しそうだ」と言われ、しかも業績悪化により契約終了の旨を告げられてしまう。
「派遣切りされてしまった……」
呆然としつつ、当時担当していた案件の代理店の担当に退職の旨を電話伝えた。
「次は決まってるんですか?決まってない?じゃあうちに来たらいいじゃないですか。」
何を言ってるんだよこの人はと思ったが、どうやら本当に面接をしてくれるらしいので、ポートフォリオを送り、それから1週間で面接を2回し、ほぼ採用ということになった。よっぽど人が足りなかったらしい。
最終面接を前に上司になる人に言われた。
「給料いくら欲しい?って聞かれるから、自分が欲しい金額を言ったらいいと思うよ。」
そんなことってあるの?と思ったが、今まで見てきた古い体質の企業とは明らかに人間も平均年齢もオフィスのデザインも全然違う、IT系の代理店だ。とにかく正直に、欲しい金額を言ってみよう。私がロスジェネじゃなくて、ちゃんとした仕事を続けられていたら貰えていたかもしれない金額。やりすぎかもだけど、200万くらいのせとくか!なんかノリも軽いし、ワンチャンいけるかもだし!ダメだったらしかたなしだしね!
そしてその数字をさも当然のことのように伝える練習までして面接に挑んだ。
最終面接で社長に年収の希望額を伝えると、
「あー、うん、多分だいたい大丈夫だと思うよ」と言われた。
叫びそうになったその瞬間、私の年収は大幅に引き上げられることとなる。
37歳:“喪失”という言葉の本当の意味を知る
実は34歳で結婚してから、半年経っても妊娠しないので、不妊治療をスタートしていた。健康系の出版社に勤めていた時、婦人科系の記事をひと通り読んでいたので不妊に関する予備知識もあり、早く始めた方が良いという判断だった。
わたしも相方も手術が必要と言われ、手術後はすぐ顕微授精にシフトし、2つ受精卵ができた。卵を子宮に戻そうという時、先生に言われた。
「どうします? 2つ同時に戻すこともできますが。1つずつにします?」
人間の生命のことなのに、こんな感じで進んでいくんだなぁと思いながら、30代後半に入っていたこともあり、慎重に、1つずつ戻すことにした。
そしてこの時の決断がもし違っていたら一体どうなっていたのか、とぞっとする出来事が起きる。
あと2週間ほどで産休に入ろうとする妊娠7か月で、子宮胎内死亡、と告げられてしまったのだ。原因不明だが、赤ちゃんがお腹の中で息を引き取ってしまっていた。
その時の悲しみを、どう表現して良いのかわからない。赤ちゃんは普通に元気に生まれてくるものだと思い込んでいたし、死産した母親は、2か月で職場復帰しなければならないということもその時初めて知った。
この2か月でどう気持ちを切り替えていいのか全くわからず、初めて宗教の力を借りた。私はクリスチャンではないが、チャプレン、という病院に在籍する女性の牧師が話を聞いてくれることになり、2度ほど伺った。
どんなに優しい言葉でわたしのことを慰めてくれるのかと思いきや、言われた言葉はかなり厳しいものだった。
「あなたはこれから、長い間ずっと辛い状態が続きます。最初の1〜2年はよくわからないまますぎていき、3〜4年でやっと落ち着くような感じよ。
あなたが経験したことは、誰が考えても一番重いことなの。普通の人は離れていきます。あなたを見ているのが辛いから。それが当たり前のことなのよ」
なんでそんな酷いこと言うんだろうと思った。でも彼女は末期のがん患者などのグリーフケアにも関わっていて、言葉に重みがあった。
そして5年後、すべて、彼女が言った通りになった。
39歳:嘘みたいな健康優良児を出産する
2つある卵のうち1つは天に帰ってしまい、残る卵はひとつのみとなった。これがダメだったらまたゼロからやり直しか……。
もう相方と2人で生きていく道を考えてもいいかもしれないな。
そう思いつつ、2つ目の卵を戻したら、なんとまたすぐ妊娠した。妊娠率だけで言ったら、2/2の100%と言う脅威的な数字だ。
※ちなみに不妊治療をしている35歳の平均妊娠率は約25%、そこから年齢が上がるごとにどんどん下降していく。
一人目の子供が亡くなってしまった7か月を過ぎるまでは、また同じことになるのではと怖くて怖くて、このストレスがお腹の子に悪い影響を与えてしまうのではと思うほどだったが、医師や助産師さんたちも検診のたびにかなり手厚く対応してくださったこともあり、無事出産日を迎えることができた。
今、娘は4歳。
「未就学児ですか?」
と確認されるほど、大きくて陽気な女の子。お兄ちゃんになるはずだった子がいなくて寂しいそうだ。
でも、もしお兄ちゃんが無事産まれていたら、わたしは二人目を望んでいたかどうか、今でもわからない。毎日の決断ひとつひとつで人生が決まっていくんだ、と身に沁みて感じてから、日々をより大切に生きるようになった。
41歳:一部上場企業で5年以上勤めた今ならワンチャン買えるかもと家探しをはじめる
その頃、都内の賃貸住宅に住んでいたのだが、相方が自営業ということもあり、賃貸の審査が普通に落とされたりすることがずっと気掛かりで、だったらいっそのこと買ってしまえばいいのではないか、と思っていたのだ。
そもそもロスジェネが家を買うなんて夢のまた夢だと思っていたが、一応一部上場企業に5年以上勤めた今、意外と買えるのではないか、と。
流行りの中古マンションリノベ物件もいくつかみたが、
「中古リノベの高い管理費とか考えたら、新築戸建てと値段変わらないのでは……」
ということで思い切って新築戸建てを探すことに。
しかし時は緊急事態宣言が降りた直後、世の中がどうなっていくのか人々が大きな不安を感じている中、審査も1回で通るほど甘くはなかったが、幸い娘の保育園が変わらないエリアで良物件を見つけ、ペアローンで新築狭小住宅を購入することとなる。できれば長く住んでいきたいが、払えなくなったら売れるようにと、駅近物件にしておいた。
44歳:ベトナムが縁で繋がったスピカンの予約をしただけで第一志望の内定GET←今ココ
派遣切りされたわたしを救ってくれた会社には本当に長年お世話になったのだが、正直自分がやりたい仕事とは少し遠かったので、ずっと転職活動をしていたのだが、笑ってしまうほど落ちてしまい、まるで落ちるために採用試験を受けているかのようだった。
そろそろなんとかしたい……と思いつつ、悶々としながら週末に飲食のバイトをしてみたり、ベトナム料理教室に通ってみたりといろいろな人と会って気を紛らわしていた。
ベトナム料理教室に通って2・3回目の時、スピリチュアルカウンセラー(以後スピカン)に会ってきてすごい良かった!!という人と同じ会になり、
「わたしもそれ、受けたいです!!」
と言って連絡先を教えてもらい、速攻3週間後に予約した。その間にもオンラインで採用面接を受けていたのだが、そのスピカンの方との面会日がくる前に、なんと内定が出たのだ。転職について相談したかったのだが、相談する前に解決してしまったのだ。その旨スピカンの方に伝えると、
「そういう人、多いのよ〜!!!予約するだけで、動くのよ〜!!」
先生は面会の間、感動して私よりも泣いていた。なんだかよくわからないけどよかったよかった。
そして自ら面接を受けといてアレなのだが、44歳のマネージメント経験もない子持ちを雇ってくれる会社とかあるんだ!とちょっと感動した。
ということで来月から新しい会社で再出発してきます。
これからは会社員で収入を確保しつつ、ベトナム料理とかお店経営とか、興味のあることに邁進していく予定だよ。
最後までお読みいただきありがとうございました!