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闕如

序章
– 望月 匡 −


一般的に集中力の無い子はADHD、発達障害が疑われる。確かそんな風に書かれていたと思う。「集中」の対義語「散漫」。散漫と言われればそれも否めない。僕は自らの幼少期を顧みた。

もしかしたらそれとは違うかも知れないし、それはごく当たり前の事かもしれないが、僕は思いつきを安易に実行するところがあった。“思いつきによる行動”に結びつく直感やひらめき。僕はそれに忠実に従ったに過ぎない。
直感やひらめきとはどこから来るのか? 僕はそれを“目に見えない何者かの関与”と考えた。あの時、彼女はそれを“母親”と言い、今僕は、それが“僕自身”と感じていた。

僕はただ、僕が“僕”だというだけで、彼女を失ったと気づいたその時まで、本当の自分を何も知らずにいた。


もしかしたら…、そんな期待を抱きながら診察室の前で待った。まさか麻美さんの弟さんに会えるなんて思いもしない事だった。彼に聞いておかなくてはと、羅列した事柄を整理しようと努めた。しかしどうしようもない焦りと苛立ちがそれを困難にした。

「ねえ、どこの高校に行くの?」
中学3年の春、新学期の教室で初めて彼女と会話した。
その瞬間まで彼女を知らなかった訳ではなかった。通学路から見上げるあの登山口に、弟さんと一緒に居るのを良く見かけた。差し出した腕のロザリオ。それを見つめる僕に「神様はいるよね」と彼女は言った。

ハッとして顔を上げた。見覚えのある顔、反射的に見た先に「内藤」と書かれた名札があった。「久しぶりですね」。施設にいる頃お世話になった看護師の内藤さんだった。「全然変わりませんね」。あの頃と変わらない笑顔が印象的だった。
「睡眠導入剤を少し多めに飲んだ様で…まだ目を覚ましませんが、心配は無いとの事です。」内藤さんの丁寧な口調は相変わらずだった。
「良かった」。麻美さんの弟さんと少しでも話しをしたかった僕は、その場に留まり彼が目を覚ますのを待とうと思った。
「入院の準備をしますが、病室で待ちますか?」
「いいんですか?じゃあそうさせて頂きます。」

僕はキリスト教会の営む養護施設で育った。教会が保育園を運営している関係で、多くの父兄は養護施設の併設に批判的だった。教会のドアの鍵はいつも開かれていて、僕は平日の、ミサの無い日の誰も居ない教会に通い聖書を読んだ。その内容は子供が読んで理解出来るものではなかったが、僕にとって信仰に触れられたのは唯一の幸いだった。気候の良い時期は教会の壁に寄り掛かり、窓から漏れる牧師さんの話しに聞き入ったりした。その時はそれが何なのか…を知りたかった。彼女を…、全ては施設の窓から見つめた、彼女への憧れだった。


「理由なんていいの。あなたなら私を理解してくれる。」
「どういう事か分からないよ。」
「私、知ってるよ。あなたが教会に通ってる事。」
僕は動揺した。僕が施設で暮らす孤児だと知られた、と不安になった。僕は自分が彼女に不釣り合いな事を分かっていて、だから決して本気にならないと決めていた。
「僕は君とこんな風に…」
咄嗟に口にした言葉を彼女が遮った。
「弟が家を出て行ったの。お母さん、弟のお母さんと二人で。」
動揺と混乱の視線の先に見たもの悲しい表情に、失いかけた冷静が戻った。

「私を好き?それを証明して…、嘘…今はまだいいよ。」

僕らは別々の高校に進み、彼女は生活費のためにバイトを始めた。

「私ね、私のお母さんの容姿を知らないの。お母さんを心から想って、いつか私の前に現れてって祈ってるけど…、想像を巡らせて一心に想うのは信仰に似てる。お母さんをすぐ傍に感じる事がある。実現のための必要な条件を満たして、その先に在るものを証明したい。」
独り言の様に言うと彼女は僕を見つめた。目が合うと彼女は微笑む…、優しさ…、そういうものに包まれて、僕の内にある何かが「愛おしい」と、そう感じていた。
「その時はあなたの元に訪れる。今はまだ言えないけど…、その時のためにあなたも準備が必要なの」
“その時”が何時なのか、それはもう分からない。

彼女は何かに気づいたと言った。
学校の図書館で一冊の本と出会ったと言っていた頃だ。その本が彼女に何らかの決心をさせたのだろうと僕は思った。
その頃の僕にはまだその真意が分からず、それでも彼女を理解しようと努めた。彼女の話す難しい話しを聞くことも、それを無心に話す彼女をもっと知りたかったからだった。しかし何時しかその内容への興味は薄れ、まして本気でそれを理解しようとは思わなくなっていた。

先生に呼び出され病室を出ると廊下に内藤さんと車椅子に座る聡君の姿があった。聡君と内藤さんを病室へ見送ると先生が言った。
「記憶障害がある様でね、何も覚えてないと言うんだ。」
「少し話してもいいですか?」
僕は何か少しでもヒントになればと考えた。


「聡君…だよね。記憶がないそうだね。」
彼の返事は無い。
「僕は麻美さんの知り合いなんだ。」そう言って名刺を取り出そうとバッグの中を覗くと、そこに一枚の写真を見つけ、それを取り出し彼に差し出した。
「これ、高校二年の時に千本浜で撮ったものなんだ。」彼は写真に目を向けた。
「教会の辺り、新しい家が増えたね。君の家のあった場所にも新しい家が建って。道路は狭いままだけど。あ、僕はあの教会の養護施設に居たんだ」
「少し横になってもいいですか?」そう言うと、彼は全く興味が無いといった様子でベッドに寝転び向こうを向いてしまった。

彼女が父親を残してあの家を出た日、彼女は施設に訪れ一冊の本を牧師さんに託した。牧師さんから手渡されたこの本が、彼女を変えた本なのだろうと思った。「僕が施設で暮らしていることを知っていたんだね。」その時気付いた。表紙をめくると、あの時の、美しい海岸線に僕と彼女の笑顔があった。

僕は写真の彼女をもう一度見つめた。…なぜ君はあんな事を言ったの?
「もしあなたが本当に理解してくれるなら、私をあなたのものにしてもいい。だから私を何よりも必要として。」
僕は彼女の全てを精一杯受け入れるべきだった。

「君がお姉さんと二人で教会に通うのを、施設の窓から見ていた…」
ふと口から出た。
「『神様なんていないよ』って…お姉さんに言った事があるんだ。」
僕は彼の記憶がどうとかなんて何も気にせず続けた。
「居るよ。居なくちゃ困るよ」って…彼女、そう言ってた。彼女は僕に失望しただろうね。僕は自分が神の存在や人間の価値について意見する立場にない人間だって分かっているから…教会に通っても、彼女にどれだけそれが必要だと言われても、彼女みたいにはなれなかった…」
「誕生日にお寺で買ったお守りを彼女にプレゼントしたんだ。『ありがとう!』って、彼女喜んでた。揶揄うつもりだった…彼女、怒ると思ってたのに…、凄く喜んでた。」

そこまで言うと突然、“愚か”が僕を黙らせ、“後悔”が僕を凝視した。
後悔…、戻れない時間が僕をジッと見つめる。それは視線というより…空間…。一時も僕から目を離さないが、しかし、僕には何の興味も示さず、耐え難い空虚さを感じさせる。そしてそれは僕を混乱に導く…

卒業を控えた頃、僕は彼女の思索と言葉に煩わしさを感じ始めた。僕にも日々日常が有り、少なからず悩みもあった。何より僕を悩ませたのは、高校を卒業したら施設を出なければならない事だった。まだそれを隠していた僕はそれを彼女に相談する事が出来なかった。

僕は彼女が実の母親を知らない事を知り親近感を持った。と同時に、僕の抱き続けた彼女への想いの意味を知った気がした。その憂いを纏った知的さはより魅力を増した。彼女への気持ちは不変だった。しかし僕は、彼女の言葉が理解し切れず、その期待に…、そう、いつも僕は彼女からの“期待”を感じていた。そしてその期待に応えられそうにない役立たずな自分を知り、それを彼女に気付かれるのを怖れた。
そんな僕を優しく見つめるその瞳…
その瞳の奥に感じる“期待”を、僕は恐れていた。

もし僕があのまま彼女の傍に居たとして、きっと僕は彼女の役に立てなかった。それはずっと僕が彼女に不釣り合いだと思い続けた事と、今現在、僕には何の力も無いという事実からだった。

そんな事を考えるうちに、聡君を登山口で見つけた巡り合わせに僕は哀しくなった。
「聡君、僕は麻美さんとの思い出を振り返る度に、彼女はもうこの世に居ない様な気になるんだ…」
何の根拠も無く憶測に過ぎないが、彼女はいつも死と向き合っていて、自分を僕の記憶に刻もうとしていたのでは無いか、と考えていた。
「急にこんな事言ってすまない。君が何か知っていたらと思っていたけど…」

「僕は行くよ。」続く言葉を探したが、何も見つからなかった。

「さっきの写真…」
聡君の声に、僕は動きを止めた。
「さっきの写真、置いていって貰えますか」
「えっ⁉︎ あ、…うん」咄嗟のことで、僕は返事に困った。
「分かった。ここに置いておくよ」
写真をテーブルに置いたその時、牧師さんから渡された彼女からの本を、そこに残して行くべきだと、そう言われたように思った。僕はバッグから取り出した本をテーブルへ置き、手首のロザリオを外しその上に乗せた。
今日、久し振りに故郷に戻り、施設を訪ね、そして登山口で聡君に出会った。その全てがこのためにあった様に思った。


− 林田 聡 −


望月さん、あなたを知っている。姉さんの部屋の窓からあなたを見た。姉さんの見つめる物を僕も見たかった。

写真をそっと手に取った。望月さんはまだ病室の入り口で誰かと何か話しているけど、それはどうでも良かった。
写真の姉を見つめた。僕の知る姉はまだ十五才の子供で、姉を想う僕は今も九才のままだった。そこに写る少しだけ大人になった僕の知らない姉は、変わらない優しい笑顔をしている。
本の表紙をめくると、そこに確かに姉の筆跡で書かれた文字があった。
「理解し難い事を理解し、全ての感情を受け容れた先の調和。矛盾を排除せず、あらゆる生命の思考、感情を自己に受け容れる事を理想とし、決して支配されない。感情的になる事は無意味で、理性の発展に努める。執着すれば、支配される。」

あの時、登山口から見る月が揺らぎ、諦めた心が僕と“僕”の終わりを確信した。
薄暗くガランとした空間は、まるで海の底の様。そこが“時間の谷”という場所だと、心に直接、何かが話しかけた。この場所を忘れまい、意識に刻もうと努力するも、見つめる光景は砂のように崩れ落ち、不快な雑音が全てを忘れさせるかの様に覆い隠した。
触覚…、触れる事へ執着する。触れ、感じる事への悦び。甘美な音や光の様な、決して触れられない…、触れる事に満たされる感覚は、“それ”が何も無い世界に在ると連想させた。全てを意識で感じる崇高な世界。僕はそこで姉に触れる。
望月さん、あなたではなかった。
あなたなんかに分かる訳がないんだ。
あんたみたいなヤツに…



どれ程眠っていたのだろうか。目を覚まし、ふと窓の外を見ると外は薄暗く、その空から時間を知るのは困難に思えた。しかしすぐに時間を知ったところで何の意味もないと思うとベッドを降り、少しだけ開けたドアの隙間から外の様子を伺った。
この病室は廊下の突き当たりにあり、突き当たりの壁には小さな窓があった。窓の向こうを覗くと、その景色でここがこの地域では有名な、所謂精神病院だと分かった。廊下の先からは話し声が聞こえる。その方向へ歩くと、その声はナースステーションの奥から聞こえていた。その向かいには灯りの付いた広い部屋があり、「レクリエーションルーム」と書かれている。硝子戸を覗くと一人の少女がテーブルに向かって読みものをしているのが見えた。部屋に入り、ドアを閉めると「こんにちは」と少女が言った。「こ、こんにちは」驚いた僕はぎこちなく返した。少女は俯いたままだった。“こんなに小さな患者も居るのか…”。部屋を見渡しながら少女に近づくと、その視線の先にはスケッチブックがあり、右手には…ステッドラーの鉛筆を握っている。
“まさかこの子が描いた絵じゃないだろう…、ひょっとしてこの子の自画像?”
そんな事を思いながら、そこに描かれた女性の絵から少女へ視線を移した。
「わすれないようにかいておくの」。唐突に少女は言った。
と、突然ドアが開き看護師が僕を見て動きを止めた。
「あ、林田さんね、驚いたわ。この階の患者さんは皆んな出かけた筈だったから。」
「そうなんですか、随分閑散とした病棟だなって思ってたところです。」
「このフロアは比較的軽度の患者さん用でね、今日は皆んなで海岸に散歩に出掛けたの。私も今から智ちゃんと向かうんですけど一緒に行きますか?」
「は、はい」
少女はスケッチブックと筆箱を棚に仕舞い出掛ける準備をしていた。
「紹介が遅れました、私、内藤と申します」


堤防に登り海岸を見渡した。浜辺に居る人々のどれが患者なのかを見分けるのは困難だった。「居た居た」内藤さんが言うと、少女が堤防を駆け下りて行った。
「智ちゃん、気をつけてね!」
「はい!」
元気に返事すると、千本浜の砂利浜を用心深く歩き始めた。内藤さんもその後に続き海の方へ歩いていった。さっきまで空を覆っていた厚い雲の隙間から陽射しが漏れた。こんな自然の見せる一面に神秘性を感じた時もあった。僕らはそれを本当に信じていた。
「お母さ〜ん」。少女が声がした。僕は反射的に声の先を見た。振り向いたのは看護師だった。僕は目を凝らした。そして…、視線を外らせ、俯き、そっと海を背にした。胸が高まり息がつまると、頰の火照りを感じ、僕はそのまま病院の方へ歩いた。


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‘幽’
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