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多様性とは何か?

みなさま

初めまして。

立憲パートナーズ社会構想研究会#社構研、非公式)と申します。

当会は立憲パートナーに加入する、東北から九州への20人強の市民により構成される研究会であり、日常の生活現場、すなわち社会課題の現場にいる私たちゆえの市民目線で、政策の提言を立憲民主党に対して行っています。詳細は専用ウェブサイトをご覧ください。

私たち社構研は、noteを開始します。

記念すべき初回となる今回の投稿では、「多様性とは何か?」という問いをご一緒に考えたく思います。

立憲民主党の枝野幸男代表は、多様性を重んじる演説を数々なさっています。

多様性は、国際社会の中で日本が生きていく上での最大の原動力となります。
先進国となった日本は、高度成長期に成功した「同じものを安くたくさん作る」という規格大量生産分野で、人件費の安い新興国との厳しい競争にされられています。日本が先進国としての豊かさを維持するには、新興国ではすぐにまねのできない技術・製品・ノウハウなど新しい付加価値を生み出すことが不可欠です。
同調圧力の強い金太郎飴のような社会では、独創的なアイデアが生まれにくく、また生まれかけてもつぶされる危険が大きくなります。違いを認め合い少数の立場や意見を大切にするからこそ、独創的な新たな付加価値が生まれ、経済の活力を生み出せるのです。

とはいえ、「『多様性の尊重』と言う前に、そもそも多様性って、どんな意味なんだろう?」ということを、今回の投稿にて、ご一緒に考えたく思います。

社構研のメンバーの方々からは、以下のようなお声がありました。

多様性は一人ひとりの人間を個人として尊重すること、自律性の側面が強いと思います。
枝野さんのお話、「なぜ多様性を重視するのか?」の部分は少し物足りない印象でした。「そうするとメリットがあるから」という面が強いように見えてしまって。それだと「多様性を否定したほうがメリットが大きい」という場合に多様性を守れなくなってしまうと思うんですよね。
「ただ多様性は何かの役に立つから必要だというだけでなく、それ自体に尊い価値があり守る必要があるのだということをもっと発信しませんか」という意見を伝えてみる方法もあるかと思います。その理由付けとしては、おそらく「人間個人の基本的な権利と尊厳に関わるものだから」という方向性になるのでしょうね。

上記のような話し合いを踏まえて、以下の整理ならばスッキリするのではとのご提案が、私たち社構研からあります。

多様性とは、物差しが複数あることです。

いわゆる健常者のもつ物差し、障害者の物差し。

いえ、見方を変えれば、男性の物差しと女性の物差しも違います。

地方の人々の物差しと、都会の人々の物差しも違います。

日本人の物差しと、海外諸国の人々のそれぞれの物差しも違います。

例えば、アメリカ出張でドラッグストアに入り、体温計を見ると、ご案内の通り華氏(摂氏ではありません)の表示になっています。初めて見たときは何かとても直感的に読めない違和感を私はつい感じてしまいましたが、アメリカ人たちには華氏が日常なのです。

ある視覚障害者の仲間は「今の社会って、健常者の物差しに合わせて作ってあります。でも私たち視覚障害者は別の物差しを持っています」と私に打ち明けてくれたことがあります。ハッとしつつも、大変わかりやすいと私は思いました。

よって、物差しは社会に様々あって、どれか一つだけが正解ということはなく、様々ある物差しを尊重しようということが、多様性という意味と考えられます。

ある企業での幹部研修で「多様性とはまぜこぜのことだ」とおっしゃった企業幹部がおられたのですが、上記の思索をすると、このご見解はやや部分的ということになります。

まぜこぜを支えている物差しへの尊重まで行って、多様性の理解ということになります。

多様性を理解すると、その共同体のメンバーの誰しもが個人として尊重され、生きやすくなります。

多様性が理解されないと、物差しは一つだけで、「これにお前らは全員合わせろ、選ぶ余地はない、考えるな」ということになりますので、社会の活気は失われ、社会の持続性も弱くなっていきます。

つまり、活力あり、持続性の強い社会のためには、多様性は不可欠ということになります。

多様性とは物差しが複数あることであり、そして、多様性は力なのです。

ぜひ、みなさまの思索や、各地遊説等のご参考にいただけましたら、この上ありません。

立憲パートナーズ社会構想研究会へ、ぜひ薄く広くご支援をお願いいたします。