ベトナム歴史秘話:南北統一前のオリンピック参加事情(1952~1972年)
2021年7月23日の東京オリンピック開会式、ベトナム選手団の入場行進。
そして57年前、前回(1964年)の東京オリンピックにおけるベトナム選手団の入場シーンがこちら。
見て分かる通り、最初に掲げられている国旗が異なります。
そこで今回は、ベトナムのオリンピック参加の歴史から見る、ベトナムの現代史を簡単に紹介したいと思います。
1. なぜオリンピック初参加が1952年だったのか?
ベトナムとして初めてオリンピックに参加したのは、1952年にフィンランドで開催されたヘルシンキ大会です。なぜこの年からなのでしょうか?それには、ベトナムの現代史が関わっています。
フランスの植民地だったベトナムは、1945年の日本敗戦後に独立を宣言しますが、それを許さないフランス側との間で第一次インドシナ戦争(1946~1954年)となりました。実はその期間中、南部に新たに国家が作られています。
まずフランスは、ホーチミン率いるベトナム全土の独立を目指す「ベトナム民主共和国」(いわゆる北ベトナム。1975年の南北統一後に現在のベトナム社会主義共和国となる)に対抗するため、フランス権益が集中している南部コーチシナ地域を分離させ、フランスの保護国としての傀儡国家「コーチシナ共和国」(1946~1949年)を設立します。
この時期1948年イギリスで開催されたロンドン大会がありましたが、戦争中であり、また傀儡国家ということもあってか「コーチシナ共和国」としてオリンピックへ参加することはありませんでした。
その後、全土統一を目指すホーチミン率いるベトミンとの戦闘が想定以上に長引いたため、コーチシナ地域だけでなくベトナム全土をフランス連合に組み込むことや、反共勢力などからも支持を得ることを目的として、グエン朝最後の皇帝であるバオ・ダイを元首とする新国家「ベトナム国」(1949~1955年)へと改変させました。フランス連合に属するベトナム人国家という建て付けながらも、フランス領インドシナであったころと比べると名目上独立した国となったわけです。
ベトナム国の国旗。黄色は、国土を表す神聖な色で三本の赤い線はトンキン(北部)・安南(中部)・コーチシナ(南部)の三地域を示します。
そして1949年の独立してから初めてのオリンピック開催が、1952年のヘルシンキ大会となります。この大会は日本が戦後初めて参加した夏のオリンピックでもあります。
1952年ヘルシンキ大会で掲げられたベトナム国の国旗。手前がアメリカで右がフィンランド。
選手を送ったのは南側のベトナム国だけであり、北側が参加するのは南北統一後となります。計8人の選手は全員男性であり、うち4人が自転車ロードレースの選手でした。他は、フェンシング、陸上10,000m走、水泳(自由形)、ボクシング(バンタム級)です。初参加でもありメダルは取れませんでした。
フェンシングの選手は、ベトナム選手団で最年少16歳だったとのこと
初めてのオリンピックにフェンシング選手がいたのには、スポーツ面でも長年にわたるフランスの影響が大きかったことの一例でしょう。そして自転車ロードレースで4人も選手を送り込んでいるのは、この当時ベトナム(サイゴンなど)で盛んなスポーツだったからです。
1959年サイゴン(現ホーチミン)で開催された競技の映像
余談ですが、日本が初めて参加したオリンピックは、1912年にスウェーデンのストックホルム大会。ベトナムが初めて参加したのはそれから40年後の1952年フィンランドのヘルシンキ大会です。
以前別の記事で、日本とベトナムのビジネス上の時差は40年(人口ピラミッドの構成や、ドル建て購買力平価ベースの1人あたりGDP、経済再スタート時期・・・戦後1946年とドイモイ1986年)と書きましたが、同じ北欧で40年の時間差での初参加というのは、偶然とはいえ意外な共通点ですね。
2. ベトナム共和国としてオリンピック参加へ
1954年ジュネーブ協定により第一次インドシナ戦争が終結するものの、北緯17度線を境にベトナムは南北へ分かれます。北は、ホーチミン率いる「ベトナム民主共和国」、南はバオ・ダイを元首とする「ベトナム国」です。
しかし1955年、南のゴディンジェム首相は、君主制を廃止し共和政の新憲法を施行しました。これにより南側は「ベトナム共和国」(1955~1975年)となりました。
そうして迎えたのが1956年オーストラリアで開催されたメルボルン大会です。ベトナム共和国は選手6人を送り込みます。全員が自転車ロードレースの選手で、内2人が1000mの陸上にも参加という選手団でした。
続く1960年イタリアで開催されたローマ大会では、財政上の理由から減らさなくてはならなくなり、選手は3人へと減り内2人が水泳(自由形と平泳ぎ)、1人がフェンシングでした。
3. 東京オリンピックでは柔道デビュー
そして冒頭に書いた1964年、日本で開催された東京大会。
ベトナムは、1975年の南北統一以前のオリンピックで最大となった計16人の選手団(全員男性)を送り込みます。
陸上2名(100m、マラソン)、水泳3名、フェンシング2名、自転車ロードレース6名に加えて、なんと柔道に3名!
下から2行目、左から3人目と4人目にベトナム柔道選手
上から2行目で左から2人目もベトナム柔道選手。いずれも1965年2月発行Black Beltより
前回の大会よりもはるかに多い選手を送り込んできた、しかも柔道の選手が3人も参加した背景として考えられるのは、東西冷戦の最前線にあった南ベトナムとして同じ西側陣営に与する日本との友好を深めることで、貿易を活発にしかつ、経済援助なども引き出す意図があったのではと考えられます。
4. ベトナムの女性選手が初参加したメキシコ大会
1968年メキシコで開催されたメキシコシティ大会。ここで初めてベトナムでも女性オリンピック選手が参加します。
ベトナム選手団は、計9人(男性7人、女性2人)で自転車ロードレース2名、射撃3名、水泳2名、フェンシング、陸上競技。この水泳の2名が女性でした。
ベトナム初の女性オリンピック選手2人
ちなみに日本の女性選手がオリンピックに初めて参加したのは、1928年のアムステルダム大会です。1928年と1968年、偶然ここでもちょうど40年の時間差がありますね。
5. ベトナム共和国最後の参加となったミュンヘン大会
1972年に西ドイツで開催されたミュンヘン大会。
ベトナムの選手は大きく減り、わずか2名で2人とも射撃(男子50m自由形ピストル)でした。
前回(1968年)の大会から射撃の選手となっていったのには、ベトナム戦争という国の置かれた状況が影響しているものと思われます。そしてベトナム戦争の激化に伴い、国家として選手を育成し国外へ送る余裕もなくなってきたのでしょう。射撃の選手さえ、スポーツを楽しむ時間やお金がないといったコメントを当時残しています。
これが結果的にベトナム共和国(南ベトナム)として最後の参加になりました。
1952~1972年のベトナム選手のオリンピック参加はコチラの動画で紹介されています。
1975年、ベトナム戦争は終結し南北は統一。ベトナム共和国は消滅しベトナム社会主義共和国へとなりました。
6. 南北統一後ベトナムのオリンピック参加
1976年、ファム・ヴァン・ドン首相は、ベトナム国内にオリンピック委員会設立を承認しましたが、国際オリンピック委員会には承認されませんでした。その為、この1976年カナダで開催されたモントリオール大会へは、参加できずとなります。
おそらく戦争終結直後の混乱及びインフラなどの復旧でスポーツどころではない事や、開催場所が西側陣営のカナダということも影響したのではないでしょうか。統一後に初参加となるのは、ベトナム最大の友好国で援助国でもあったソ連で開催された1980年モスクワ大会となります。
記念切手が作られるなど注目度が高かったことが分かる
しかし1984年アメリカで開催されたロサンゼルス大会へは、東側陣営の一員としてボイコットすることになります。政治環境に翻弄されたベトナムのオリンピック参加がここからも見て取れます。次の1988年の韓国ソウル大会から毎年参加するようになりました。
そして月日は流れ、初めてメダルを取ったのは2000 シドニー大会(銀)、初の金メダルは2016 リオデジャネイロ大会になってからです。
さて今回の東京大会でベトナム選手は、どのような活躍を見せるのでしょうか?
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7. ベトナム歴史秘話いろいろ書いています
8. 参考&引用元
今回は以下の記事を参考及び引用して書いています。
ベトナム共和国とオリンピックに参加した最初のベトナム人(ベトナム語)
1964年東京オリンピックにおける参加国・地域に関する史的研究
PS: ベトナム選手団の入場シーンの画像を見てこれを書こうと思い立ってから、調べ始めて書き上げるまで2時間50分でした(笑) いつものようにじっくり調べて書いていないので何か間違っていたら、失礼します。