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『他人は自分。一人称の人生観』雑感400_68

毎日の読書から、だいたい400文字の雑感を。

子ども叱るな、来た路じゃ。年寄り笑うな、行く路じゃ。

5歳の娘は、毎日のように私の心をかきまわす。未熟な私は「なぜなんだ?」「理解できない!」「困らせたいのか?」と惑う。

"来た路じゃ"と言われても、当時の記憶はさほどない。記憶は捻じ曲げるもので、5歳の自分は聴き分けの良い、親想いのいい子だったと思い出される。自分の思考が恐ろしい。

それも親に聞けばわかること。どうやら私も、毎日のように親の心をかきまわしていたようだ。

やはり"来た路"だった

親がそんな自分をここまで育ててくれたことを思うと、親には返しきれない恩をせめて子どもに、と思える。

著者は『一人称の人生観』を提唱する。子どもと私ではなく、子どもは(かつての)私である。子どもがしたいたずらは、(かつての)私がしたいたずらである。

他人を自分だと見る。それが一人称の人生観。

子どもも親も、後輩も先輩・上司も、友人も恋人も、道行く人もお隣さんも、すべて自分だ。誰もが、自分がしてきたこと、これからするようなことをやっている。

言葉が勝手に、他人と自分をわけた。みな同じ人間だ。他人の中に、自分が見える。


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