鼠の話(20160429)

花々の花粉で煙っているように思える空気と半月を過ぎた朧月。
どこからかやって来る藤の花の香りが鼻先をくすぐる。


気持ちのいい、春の宵。


いつも行く飲み屋で美味しいお酒とご飯を楽しんで、ほろほろと心地良く酔っ払って辿る、家路の途中だった。


「あ」


立ち止まって、足元を見る。
そこには、車にでも轢かれたのだろう、鼠の礫死体が転がっていた。
今、死んだばかりのようだ。
街灯の光を受けたピンク色の内臓がぬめるように光っていて、血が沢山出ているはずなのにそれはアスファルトの黒と夜の暗さに飲まれてわからない。
表情もよくわからないが、ただそれがかつて鼠という生き物であっただろうことは間違いなくわかるような、そんな死体だった。


少し後ろから怪訝な顔をして歩いてくる恋人の方を振り向いて、彼がやって来るのを待つ。


「どうしたの?」
「鼠が死んでるよ」
「うわ、ほんとだ。こりゃひでぇなあ」
「埋めてあげないといけないね」


このままにしていたらまた車に轢かれてぐちゃぐちゃにされてしまうだろうし、朝になったらきっと近所の人が見つけ、生ゴミと一緒に捨ててしまうだろう。
同じ生き物として、それは随分不憫なことのように思う。
埋めてやれなくても、せめて土の上へ。
食物連鎖に帰れる所へ動かしてあげたかった。


しゃがみ込んで、手を伸ばした瞬間、ぐい!と、ものすごい強さで恋人がそれを阻んだ。


「ばか。こいつらどんだけ病気持ってると思ってんだ」


一気に酔いの醒めた、半ば怒ったような顔をして彼は私の手を強く掴み、その場から遠ざけるように歩き出す。


「でも」
「死ぬかもしれないんだぞ下手したら」
「ビニールとかで直接触らないようにしたらいいんじゃないの」
「そういう問題じゃない。 可哀相かもしれないけど、 そんなことして病気になったらお前の方が可哀相だろ」


皮肉なことに、目の前は寺だった。
もう五分歩けば神社もあるというのに、私は鼠一匹、弔えない。
いや、弔えないのではない。弔わない。
本当にやりたかったのならやればよかっただけなのだ。
病気になろうが構わずに鼠を別の場所に動かす事は出来た。
病気が心配なら、消毒用アルコールでもなんでも撒けばよかった。
出来なかったんじゃない。様々なことを理由に、何かの、誰かのせいにして、しないということを、私は自分で選んだ。


家に帰っていつもの通りシャワーを浴びて歯を磨き、私たちは何事もなかったように眠りに就いた。
布団の中でなんとなく「ごめん」と言ってしまった。
ごめんと言うくらいなら……そう思いながらも、どうしたらいいかわからなかった。


ただの鼠1匹の死だ。
自然界ではありふれた出来事だ。野蛮なことでも、悲しいことでもない。
流れていく川のごとき営み。
家の中に出た虫なら、躊躇なく殺すだろう。あの鼠が家の中に出たなら、その存在に嫌悪を抱くだろう。
自分の生活の、人生の外側にいて初めて、私はあの鼠の死を悲しいと思った。それなのにこんな、必要以上に感傷的になっている自分がひどく傲慢に思える。
でも悲しくて空しいのも事実だ。
どうしたらよかったのか、正しかったのか、いくら考えてもわからなくて、頭の奥が疼くように痛む。


誰の事なら。
何なら。
どれなら。
どうしたら。


正しく弔い、その死を悼む事が出来るのだろう。
そういえば今日居酒屋でもらった焼き鳥は美味しかったな、と思い出す。
焼き鳥を食べながら、それがもとは生きていたんだなんて微塵も思わなかったけれど。


翌朝、日が随分高く昇ってから、
私は鼠の死体がどうなったかを確かめに行った。
大して酔っていたわけでもないのに、場所さえきちんと覚えていなかった。
とんだ偽善で茶番だ。
ただ一箇所だけ、路面が濡れていたのでなんとなくの予測をつける事はできた。
目の前の家の人が気付いて、何かしらの手段で「片付けた」のだろう。そして水で洗ったのだろう。


見上げた空が莫迦みたいに透明で青くて、悲しくなるほど綺麗だった。
青空の下にぽつんと立っている自分が本当は真っ黒なシミで、この世界を汚しているのは自分の存在なんじゃないかと思ってしまうくらいに。


ぼうっとしている間に、じわじわと涙が勝手に滲み出してきた。
あんまり眩しいのが目に沁みたんだと思いたいけれど、本当は今この場所にうずくまり、大声を出して泣いてしまいたい気分になっている自分がいて、だけどそれは鼠の死に対してじゃない。
あの青空みたいに綺麗に透明に生きて行けたらいいと願いながらそこへ到達できない、自分の弱さと世界の惨さを目の当たりにして途方に暮れているだけなんだとわかってもいる。こんなときでさえ自分の事しか労われない自分が鼠を弔えないのは当たり前のことで、きっといつか、私も同じように打ち棄てられるのだろう。


それでも空は青くて、綺麗で、透明だ。
私ひとりの愚かさを易々と飲み込めるほど、目の前に広がる世界は美しくて、広い。

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