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第4号(2018年9月14日)ロシアは日本と平和条約を結びたがっている?


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【質問箱】ロシアは日本と平和条約を結びたがっている?

●今週の質問
 ロシアは日本と平和条約を結びたがっているように見えるのですがこれは何故ですか?日本側は外交カードとして使っているように見えます。


 ご質問ありがとうございます。
 これはプーチン大統領が9月12日、東方経済フォーラム(VEF)において提起した「年内に平和条約を結んではどうか」という発言に関するものだと思います。
 まずはこの発言が出てきた状況について確認してみましょう。
 東方経済フォーラムはロシア政府が極東振興のために2015年から毎年開催しているフォーラムであり、日本の安倍首相は世耕経済産業大臣とともに毎年出席しています。政府首脳を毎年東方経済フォーラムに出席させているのは日本だけであり、これも日本のロシアに対する「お土産」のひとつと言えるでしょう。
 今年の東方経済フォーラムも安倍首相は例年通り出席し、12日には各国首脳を壇上に招いた全体会合において「対立の原因をなした島々は物流の拠点として明るい可能性を見いだし、日露協力の象徴へと転化するだろうし、日本海も恐らく物流のハイウェイとして一変しているだろう」と述べた上で次のように続けました。

「プーチン大統領、もう一度ここで、たくさんの聴衆を証人として、私たちの意思を確かめ合おうではありませんか。
 今やらないで、いつやるのか、我々がやらないで、他の誰がやるのか、と問いながら、歩んでいきましょう。
 容易でないことは互いに知り尽くしています。
 しかし我々には、未来の世代に対する責任がある。北東アジアから一切の戦後的光景を一掃し、未来を真に希望に満ちたものへと変えていく責任が私たちにはあります。
 会場の皆さん、我々の子どもたちを、我々の世代を悩ませたと同じ日露関係の膠着(こうちゃく)で、これ以上延々と悩ませてはなりません」

 発言の全文は官邸の公式サイトから閲覧できるのでご確認いただきたいと思います。

 この安倍首相のメッセージに対するプーチン大統領からの発言は次のようなものでした。

「こんなアイデアが頭に浮かびました。平和条約を結びましょう。今すぐにではないが、この年末までに、いかなる前提条件もつけずに」

 この発言に会場内からは拍手が起こりましたが、これは事情をよくわかっていない諸外国の人々の反応であり、安倍首相は苦笑するのみで返答はしませんでした。
 何故かといえば、プーチン大統領の発言の最後にある「いかなる前提条件もつけずに」が日本側としては到底受け入れられるものではないためです。
 1956年の日ソ共同宣言では、両国が平和条約を締結した後に歯舞・色丹を引き渡すことが明記されましたが、1993年の東京宣言では、

「(日露首脳は)択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題について真剣な交渉を行った。
 双方は、この問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する」

としており、四島の帰属問題解決が平和条約の「前提条件」とされています。
 1997年のクラスノヤルスク宣言でも「東京宣言に基づき」2000年までに領土問題を解決し、平和条約締結を目指すという建て付けは再確認されています。
 したがって、「いかなる前提条件もつけずに」というプーチン大統領の発言は一見耳障りはいいものの、交渉の経緯を知る側からすれば冷戦後の日露交渉の成果を反故にするような発言ということになります。

 プーチン大統領はこの前日、領土問題が短期間で解決すると考えるのは「ナイーブだ」とも述べています。「ナイーブ」というのは日本語ではなんとなく優しいイメージがありますが、英語では「未熟な」「単純な」という意味であり、ロシア語のナイーブヌィ(наивный)も同様です。いずれにしてもあまり良い意味ではありません。
 プーチン大統領は2016年12月の訪日前にも領土問題の解決には時間が掛かるのであって期限を切ることは有害だと述べており、年内にも結ぼうという平和条約と領土問題解決が切り離されていることは明らかでしょう。
 こうしてみるとプーチン大統領が口にした「平和条約」と、日露が結ぶことに合意した平和条約は別物と言ってよいのではないかと思います。
 また、ロシア側はこれまでにも平和条約の前に別の中間的な条約を結んではどうかという案を示唆してきており、プーチン大統領の発言は「年内に」という部分を除けば別段新しいものでもありません。プーチン大統領は「アイデアが浮かんだ」と言っていますが、その「アイデア」自体は以前から存在するものであり、全体会合に持ち出すにあたってはおそらく外交当局とも入念に調整してから口にしているでしょう。
 ではプーチン提案に乗って年内に本当に「領土抜きの平和条約」を結んでしまえばどうかという考え方もありますが、そうなれば領土問題はまた数十年にわたって棚上げとなる可能性が高いように思われます。括弧つきの「平和条約」がその後の領土問題解決に関してよほど具体的なロードマップを示すものであればまた話は別かもしれませんが、わずか3ヶ月ほどでそのようなものを結ぼうとすれば外交当局間で詰めの協議を行う時間はほとんどなく、北方領土の実効支配を追認するだけに終わる可能性も高いでしょう。

 というわけでご質問に対する総括的な答えを述べるならば、ロシアの言う「平和条約」は日露が約束した平和条約とは別物のロシアにとって都合の良い条約であり、それゆえにプーチン大統領はこのようなものを持ち出した、ということになるでしょうか。


【今週のニュース】ロシア軍極東大演習 ほか

 ロシア及び旧ソ連の軍事に関する今週のニュースをピックアップします。

・11日から極東で大演習「ヴォストーク2018」が開始。13日には第2フェーズ(部隊実働段階)に移行した。
 第2フェーズでは実弾射撃を含む4つの戦術シナリオが実施され、イスカンデル-M戦術ミサイル・システム、トルナード-1・ウラガーン・グラードの各多連装ロケット・システム、ムスタ-S・ムスタ-B・ギアツィント・アカツィアの各火砲、Tu-95戦略爆撃機及びTu-22M3長距離爆撃機計4機、Su-24及びSu-34戦闘爆撃機各16機が投入される。
 また、13日にはプーチン大統領がツゴル演習場を視察し、挨拶を行ったが習近平国家主席は参加しなかった(TASS、9月13日)。

・インターネット上に軍内部の写真、ビデオ、ジオタグを含む情報を投稿した軍人に罰則を科す連邦法案が議会に提出された(RBK、9月11日)。

・国有軍需産業連合「ロステフ」における民生品の生産比率は30%であるとマントゥロフ産業貿易大臣が発言。プーチン大統領は2030年までに軍需企業の民生品生産比率を50%に引き上げるよう2016年12月の大統領教書演説で述べていた(TASS、9月10日)。

・イランの首都テヘランで開催されたロシア・トルコ・イランの参加国首脳会談は決裂に終わった。トルコの支援するシリア反体制派の拠点イドリブに対して総攻撃が迫っているとみられる中でトルコ側は停戦を主張したが、ロシアとイランが受け入れなかったことによるもの(各種報道)。


【NEW BOOKS】栗田真広「パキスタン・ロシア関係の発展と限界」

・栗田真広「パキスタン・ロシア関係の発展と限界」『NIDSコメンタリー』第85号、2018年9月12日

 私自身も『軍事研究』誌で何度か紹介していますが、この数年、ロシアとパキスタンが急接近しています。もともとパキスタンは米国の友好国であり、ソ連のアフガニスタン侵攻に際してはムジャヒディーン勢力を支援した宿敵であったわけですが、この数年の動きは非常に急なものがあります。その背景について防衛研究所の栗田先生が日本語でわかりやすく解説してくれたコメンタリーが出ましたので是非ご一読ください。
 ちなみに栗田さんは一橋大学の博士課程と国会図書館職員としての二足の草鞋を履きながらパキスタンの軍事研究を続けてきた人物で、最近防衛研究所へと転身されました。その知識の該博さに加えて理論(特に核戦略理論)に極めて強く、文章もシャープな若手研究者の注目株なので、今後とも活躍が期待されます。
 今月中には博士論文をまとめた『核のリスクと地域紛争: インド・パキスタン紛争の危機と安定』が出版されるとのことで、楽しみにしています。


【編集後記】メディア出演の裏側

 今週は北朝鮮の建国記念軍事パレード(9月9日)、日露首脳会談(10月10日)、東方経済フォーラムとヴォストーク2018演習の開幕(9月11日)と私の商売に関係のあるイベントが相次ぎ、メディア出演の予定がぎっちりでした。
 このようにある程度日程が決まっているイベントの場合、メディアは話をしてくれそうな出演者の予定を事前に抑え、番組の論調を決めるために電話や対面でかなり長時間の事前打ち合わせを行います。当日来てくれればそれでいいというものではなく、司会者にどんな話を振ってもらうか、フリップや映像に何を盛り込むかなどの準備をしなければならないわけですね。
 それゆえにこうしたイベントが相次ぐと、出演それ自体に加えて事前打ち合わせでかなりの時間を取られるため、「本業」のために読んだり書いたりという時間が削られてしまいます。
 メディアの出演料は意外と悪くない額をくれるのですが、それも拘束時間を考えればとんとんというところでしょうか。

 もっと困るのは今回取り上げたプーチン発言のような突発事態が起こることで、こうなるとメディアからは「今から(あるいは今夜)来てくれませんか」という依頼がいきなり来ます。あるいは電話で「この発言の真意は何か」という問い合わせも来ます。
 これもなるべく受けるのですが、いきなり「今夜」と言われても急ぎの仕事があったり子供を迎えに行かないといけなかったりでなかなか大変です。
 ときどき「テレビで見たけどなんか疲れてない?」と言われるのですが疲れているのは実はこういうわけでした。

 ちなみにメディアには「壊れて」しまっている稀に人もいます。あるとき「今から来てください」の電話に「もう帰宅して家族と夕食を食べているので」と断ろうとしたら「えっ…夕食?」となぜかショックを以って受け止められました。
 これで断れたのかと思ったら、しばらくしてから「まだ夕食なんですか?(原文ママ)」と言われ、結局は渋々出向いていったのですが、インタビュー場所には疲れ果てた顔のディレクター(性格は決して悪い人ではない)が待っていて「ああ、この人もメディアの無茶なスケジュールで何がなんだかよくわからなくなってしまっているんだな」と思ったのを覚えています。もしかするとまともな時間に帰宅して家族と夕食を取るということを何年もしていないのかもしれません。
 メディアにはたまに恐ろしく非常識な人がいるのですが、その人たちの個々の事情を考えると無茶振りもなかなか無下にできないところです(素で無礼なだけ、という例もままありますが)。
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【発行者】
小泉悠(軍事アナリスト)
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