怪談『無人自衛隊』
人民解放軍の東京駐在武官が蒲田の商店街を歩いていると、見慣れぬ店に行き当たった。まるで時代劇で見るような古い商家で、紺染の暖簾には「無人自衛隊」と染め抜かれている。
店の中は暗い。土間の向こうには小上がりがあり、年季の入った箪笥や何かの棚が並んでいるらしいことが、一つだけ灯った行燈によってかろうじてわかった。
東京での土産話になるかもしれない。
興味をそそられた武官は、暖簾を押し上げて中の様子を伺うと、急にギクリとした。意外なほど近くに番頭らしい者が立っていたからである。表は夏の盛りだが、店の中は墨でも流したように暗く、激しい陽射しは全く届かなかった。
「ここは何の店だ」
動揺を悟られぬように武官が問うた。店の中は暗いだけでなく、恐ろしく冷え切っていた。番頭は白い顔を微笑みの形に歪めて「手前どもは無人自衛隊幕僚監部でございますよ」と答えた。
「しかし、自衛隊には陸海空しかないじゃないか。それに幕僚監部は市ヶ谷にあるはずだ。俺は」
「武官でおられますから、よくご存知でしょう」
どうして知っている。
武官の背中を冷たいものが流れた。
違和感が恐怖に変わった。
逃げよう。ほんの数歩引き返せば蒲田の暑い商店街に戻ることができる。だが、踵を返したそこも、真っ暗闇になっていた。出口はどこにも見当たらない。見渡す限りが例の墨を流したような闇で覆われており、ずっと遠くに行燈がいくつか灯っているのがかろうじて見えるだけであった。入り口から見えていた小上がりもどこかへ行っている。
残っているのは番頭と称する、異様に色の白い男だけであった。
「お前たちが自衛隊でないことはわかった」
武官は座った眼で番頭(それが名前のとおりの存在でないことは明らかだったが)を睨みつけた。
「ではいったい何者だ?」
「無人自衛隊でございますよ」
番頭の顔はさっきよりも一層歪んでいる。しかも、もはやその歪みは微笑みの形には見えなくなっていた。
「そんな自衛隊があるものか。第一、無人と言いながら少なくともお前一人はいるではないか!」
武官は噛みついた。そうしてどうなるという見込みがあるわけではないが、そうでもしなければ正気が保てそうもなかった。
そして、彼は正気を保っていることが結局できなかった。
「番頭」の顔の歪みはますます大きくなり、やがて人の形を装うことを辞めた。歪んでいったのは顔貌だけではない。「番頭」の声は男のようにも女のようにも、あるいは動物の鳴き声のようにも機械の回転音のようにもなった。その声とも音ともつかないものは、しかし、たしかに人語で次のように聴こえた。
「手前どもは、人間ではございませんのでねェ」
武官が意識を回復したのは数日後、病院のベッドの上でであった。
山手線の中で意識を失って倒れているところを発見されたのだという。見つかった場所は蒲田駅であった。人民解放軍は過労であると判断し、彼に帰国を命じた。
帰国前、武官はこのことを友人のロシア武官に語って聞かせた。でっぷりと太ったロシア人の大佐は武官の話を注意深く聞いた後、「それは狸か何かに化かされたに違いない」と言った。それどころか、彼はこの説に大いに自信があるのだという。
「信用したまえ」
彼はウォッカグラスを掲げながら厳かに言った。
「なにしろ、私は狸穴の人間なんだから」
『無人自衛隊』というお話でございました。
お後の支度がよろしいようでございます。