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ノイズ考(『スイートプリキュア♪』)ーーposition noise/sorrow in our suite/life.

はじめに

 先日、『スイートプリキュア♪』(以下、スイプリ)を完走した。充実した作品であった。

 7話でひびかなにもっていかれていたが、その後も、ビートやミューズをはじめとした魅力的なキャラクターに魅了されっぱなしであった。

 スイプリは「音楽」がモチーフとなった作品である。スイート(suite/組曲)、メイジャー(major/長調)、マイナー(minor/短調)など、音楽用語を冠した固有名詞が多く出てくる。

 その中で、本作のラスボスであるノイズ(noise/雑音)はやや風変わりである。なぜならば、ノイズ(雑音)とは音楽から排除されるべき音だからだ。

 本稿では、ノイズが音楽の外部にあることを念頭に、スイプリ47話で繰り広げられたキュア問答に関して筆者が感じたことを記す。そして、スイプリという作品が持つ時代的な意義ーースイプリは2011年2月に放映が開始されたーーを考察する。

ノイズとは何だったのかーーnoise is sorrow.

 スイプリのラズボス、ノイズ。彼の目的は世界から音を消し、無音の世界を作ることだった。ノイズにとってはそれが理想の世界である。

 全て消え去れば悲しみもない。静かで平穏で理想的な世界じゃないか。

 悲しみがない世界は確かに理想的な世界かもしれない。しかし、その代償として「全て」が失われる。いや、順序としては「全て」が失われるついでに「悲しみ」がなくなるのかもしれない。

 そんな世界を作って彼はどうするのか。

 いずれ、消え去るさ。私もな。

 理想の世界を手に入れた暁には、ノイズ自身も消え去るという。なにもない世界を作って、自分も消える。それが、彼にとっての理想。あまりにも理解不可能な理想。

 あなた一体、なんなの。

  ーーそんなこと、こっちが聞きたい。

 ノイズはいままで人間たちから忌み嫌われ続けていた。その声、その姿、人は彼の全てを忌避した。まるで、汚いものでも見るように、である。なぜ私が存在するのか、私に存在意義はあるのか。こうした問いがノイズの頭をもたげてもおかしくない。

 私を生み出したのはお前たちだ。

 ノイズは人間の感情から生まれた。それも、「悲しみ」という感情から生まれたという。止めどない悲しみの具現化。悲しみそのものと言ってもいい存在。それがノイズなのだ。

 誰しも悲しみがないに越したことはない。すなわちノイズは「居ないほうがいい」存在なのである。ここで、ノイズと私たちの共通点が浮かび上がる。どちらも「悲しみがない世界」を「理想の世界」と考えているのだ。ノイズは理想の世界を達成するために「全て」を無に帰すというが、方法が極端なだけで「理想の世界」の内容そのものは私たちと似通っている。

 ある意味、ノイズがしていることは強烈な居直りなのかもしれない。「俺を忌み嫌うお前たち、良かったな。俺は消えてやる。でも、お前たちも含めた『全て』と一緒に消えてやる」。こうしたメッセージを受け取らずにはいられない。

いのちの音ーーlives compose a suite.

 ノイズは本当は悲しいんだ。自分の声が醜いと思ってる。それを聞きたくないから全ての音を、世界を消し去りたいんだ。

 響は戦えないという。ノイズと戦うことが悲しすぎるという。自分自身を憎まざるを得ない、否定せざるを得ない、ノイズのその出自が悲しいという。

 確かに、響の言う通りだ。忌み嫌われる星の下に生まれ、他者から忌み嫌われ、自分すらも自分を忌み嫌う。誰からも承認されない、誰にも必要とされない、そんな命は悲しすぎる。ノイズの命には意味はないのだろうか。

 この点を考えるにあたって、17話に遡る必要がある。北条響。彼女の名前の由来が示された回だ。

 北条響。スイプリ主人公の彼女は音楽一家に生まれ、その出自を示すように「響」の字が与えられた。17話では、加音町を一望できる丘の上で、母親である北条まりあが響の名前の由来を語る。

 私もここが一番好き。
 ここにいるといろんな音が聞こえてくるでしょう。
 [...]
 普通に暮らしてるだけのどこにでもある音。でもとっても平和な音。それはみんなが生きている音。
 その音が響き合うのを聞いていると、とっても優しい気持ちになれるの。
 そんな話をパパとしながら、子どもの名前は「響」にしようって決めたのよ。

 人間は生きているだけで音を発する。吐息、声、心臓の鼓動、内臓が食物を消化する音、ノド鳴り。空腹によるお腹の音はマヌケだが、そのマヌケさすらも生きていることを、生命(life)の存在を示している。

 また、人間は社会的な象徴の音も利用する。言語、定型的な挨拶。音それ自体は物理現象だが、音の意味は社会的なものだ。音声コミュニケーションはこうした音に宿された社会性を基盤としている。また、社会的な音は特定の感情を喚起する。ラッパの音が豆腐屋と結びついたとき、どこかノスタルジックな念を抱くように。コミュニケーションという実利的な側面だけではなく、感情的な側面も含めて、私たちの生活(life)は社会的な音に満ちている。

 まりあが言う「生きている音」とは、こうした、人間が発する生物的・社会的な音のことを指しているように思われるーー筆者はこうした音を「いのちの音」と総称しているーー。二人が話した丘から見える街には「いのちの音」が溢れている。いや、「いのちの音」は世界中にあふれている。

 音楽モチーフを援用するならば、社会とは、それぞれの「いのちの音」が織りなす楽曲といえるのかもしれない。そして、それぞれの社会が織りなす楽曲を含みこんだ世界を、「組曲(suite)」として理解することができるだろう。私たち一人ひとりの生命が、生活が、世界という組曲を構成しているというのは言い過ぎであろうか。

ノイズの音ーーposition noise in our suite.

 スイプリは音楽をモチーフに「個人ー社会ー世界」と「いのちの音ー楽曲ー組曲」を対応付けている。筆者はこのように考えている。しかし、音楽モチーフを貫けば貫くほど、ノイズの居場所はなくなる。説明しよう。

 たとえば、ピアノの鍵盤を見ればわかるが、「ド」と「レ」の間には「ド♯(レ♭)」がある。しかし、「ド」と「ド♯」の間には鍵が存在していない。少なくとも、「音楽」の上では、「ド」と「ド♯」の間の音は「ないことになっている」。

 「ないことになっている」とは、裏を返せば、「本当はある」ことを意味している。たとえば、ギターであれば、「ド」と「ド♯」の音を鳴らすことができるように。しかし、「鳴らすことができる」は「実際に鳴らすこと」を意味するわけではない。ギターであれば、フレットという目安を設け、チューニングを正確にすることで、奏者は「ド」と「ド♯」の間の音が鳴らないようにする。

 音楽における雑音(noise)とは、まさに「ド」と「ド♯」の間の音のようなものだ。もちろん、演奏中の私語も雑音であるが、それは音楽外在的なものだ。「ド」と「ド♯」の間の音のような雑音は、「鳴らそうと思えば鳴らせる」という点において音楽内在的だ。ゆえに、調和の取れた音楽とは、音楽内在的な雑音を念入りに排除した上で成立する。

 スイプリを貫く世界設定はメイジャーランドとマイナーランドの対立だった。ノイズはそこで、マイナーランドの陣営に属していたが、最終局面では、マイナーランドとは関係なく、世界を無に帰そうとする一人の個人としてプリキュアの前に立ちはだかった。ノイズはメイジャーランドはおろか、マイナーランドの関係者ですらなくなっている。それはちょうど、音楽内在的な雑音が、メジャーコード、マイナーコード、どちらの和音の構成音にもなれないことと似ている。

 それでは、音楽モチーフで貫かれたスイプリの世界には、ノイズの居場所はどこにもないのだろうか。

  ノイズ、あなたはあなたなの。

  その声も羽の音も。

  あなただけの立派な音楽。

  そう、みんな違ってていい。

 そんなことはない。スイプリの世界にもきちんとノイズの居場所はある。

 みんな、それぞれ自分だけの音楽を持っているの。色んな人がいて、色んな音楽あって、喜んだり、悲しんだり。きっと、そうやってみんなつながってこの世界はできている。

 誰かが耳を塞ごうとも、誰かが目を背けようとも、ノイズの声も羽音も、それはノイズの「いのちの音」だ。

 この世界が一つの組曲なの。

 ノイズ、あなたもその一部。

 世界が「いのちの音」で構成される「組曲」であるならば、ノイズの居場所は確かに存在している。なぜなら、彼の声も、羽音も「いのちの音」だからだ。アコが鳥の姿をしたノイズを助けたように、その羽音や声を受け入れてくれる人がいる。その音で、優しい気持ちになる人もいるはずだ(元気を取り戻した「ピーちゃん」と話している時、アコはどんな顔をしただろう)。

 「組曲」の中では、ノイズは決してnoiseではない。

悲しみの意味ーーposition sorrow in our life.

 「自分は居ないほうが良い存在である」

 雑音であり、悲しみの象徴であるノイズの自己評価はこうしたものであった。それに対して、プリキュアたちは「組曲」にノイズを位置づけようとする。

 うるさい。

 ノイズは食い下がる。

 笑顔など見てなんになる。
 幸せなどありえん。

 笑顔の虚しさ、幸せの儚さ。それを誰よりも知るのがノイズだ。彼は悲しみから生まれた。そして、人が生きる限り悲しみは生じる。笑顔も幸せも一瞬で悲しみに変わる。

 悲しみを消すためには全てを無に帰すことしか方法はない。これがノイズの行動原理だ。そして、その背後仮説は「悲しみは存在しないほうが良い」というものだ。人生に悲しみはないほうが良い、という主張には思わず賛同したくなる。それでは、悲しみの象徴たるノイズは忌み嫌われ、排除される宿命しかないのだろうか。

 ノイズ、聞いて。悲しみは、乗り越えられる。

  ーーいくら乗り越えようと、悲しみは生まれ続ける。

 それなら乗り越え続けるだけよ。

  ーーそれに何の意味がある。

 その分だけ、人は前にすすめるから。

  ーー知ったようなことを。

 知ってるからよ。私はみんなの敵だった。[...]みんなが過ちに気づかせてくれたから、私は生まれ変われた。

 私もパパが居なくなって辛かった。一人で迷って、悩んで。でも、みんなが居たから私はありのままの自分になれた。

 コップ一杯の水の真の価値を知るのは砂漠の遭難者だろう。それと同じように、仲間の真の価値を知るのは悲しみに打ちひしがれた経験を持つ人ではないだろうか。

 思えば、スイプリは「関係性の喪失」が起点となっていた。喧嘩、裏切り、孤独。4人の少女は人間関係における「悲しみ」を背負っていた。そうした悲しみを背負った人びとが、その悲しみを梃子に絆を深める物語であったように思われる。

 で、あるならば、悲しみが人生に不要であるなんてことはない。

 幸せなどありえん。

  ーー今はそうでも、いつか分かるよ。

 喜びはいつかくる。そしてその喜びは、悲しみを乗り越えた先に存在している。喜びに至る過程として、悲しみは私たちの人生に確かな意味をもつ。

おわりにーー「悲しみは、乗り越えられる」

 できることなら、悲しみを経ずに喜びに至ることはできないだろうか。こう考えるのが人間の性だ。人生に対する悲しみの意義を強調するスイプリは、ある意味ではこうした人間の性に反しているのかもしれない。なぜ、スイプリは「悲しみの意味」といった逆説を提示するのだろうか。

 「悲しみを経ずに喜びに至ることができればそれが一番良い。人生に悲しみがなくなって、喜びだけに満ちたらそれが一番良い。しかし、厳然として人生には悲しみが存在する。そして、人間は悲しみに意味を与えなければ生きていけない。スイプリは悲しみの意味づけ方の1つの方法を示した」

 これが筆者の答えだ。理想を描くのは良いが、ユートピアはどこにも存在しないからユートピアなのだ。私たちの人生には厳然として、避けがたく悲しみが、喪失が、挫折が存在する。

 2011年3月11日ーースイプリ放映開始のおよそ1ヶ月後だーー、あまりにも多くの悲しみが、喪失が、挫折が私たちを襲った。いのちが、街が、土地が、食料が、安全が、未来が、過去が。可能態としての悲しみや喪失が堰を切ったように溢れた。

 「なぜこんなことが」。この問いには誰も答えてくれない。その日は不条理そのものであった。それまでの人生とは結びつかない。この悲しみをどう意味づけ、人生の中にどう位置づければよいか分からない。まさに不条理であった。

 もちろん、この大災害を「喜びへ至る過程」としてポジティブに解釈することなど断じてできない。起きなければ良かったのは言うまでもない。しかし、起きてしまった。起きてしまったのだ。

 これは筆者の人間観であるが、人は不条理な悲しみに耐えられるほど強くはない。不条理であっても、その悲しみにどうにかして意味を与え、人生に位置づける。人はそうすることでなんとか生きていくことができるのだと思う。(現代もなお宗教が命脈を保っているのは、宗教が悲しみに意味を与える装置の一つだからだろう。)

 未曾有の災害によって生じた悲しみを、できることなら乗り越えられる悲しみとして人生に位置づけてほしい。今すぐは無理でも、また笑顔になれる日が来てほしい。喜びを信じることができる日が来てほしい。いつか、「あの悲しみを乗り越えた私」になってほしい。スイートプリキュアとは、そうした願い込められた作品のように思われる。

 悲しみは、乗り越えられる。

 この言葉が、かくも切実な意味をもつプリキュアを他に知らない。

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