お風呂屋さんKEEP缶
京都の街のど真ん中で育ちましたが、半世紀以上も前のこと。昭和40年頃、近辺では家にお風呂がある家はほぼ無く、私の家から銭湯が徒歩1分以内に2店舗ありました。いつも行くお風呂屋さん(銭湯とは呼ばなかったんです)は、物心ついた頃は楽しい遊び場でした。
家には、寝たきりの、おばあちゃんが居たので、車は何台かありましたが、家族全員で何処へも遊びに連れて行ってはもらえなかったように思います。特に、母は、祖母の介護のため、いつも家に居ないといけないので、琵琶湖へ泳ぎに行く時や、高雄の方へ川遊びに行く時も、父親と兄とお店の従業員の人たちとでした。
母とのお出かけは、四条の大丸や、丸物のデパートへ買い物へ歩いて行くかお風呂屋さんくらいでした。
私は、特に、毎日通うお風呂屋さんが大好きでした。
日が暮れて、お月さんや、ライトアップされた京都タワーの天辺のチカチカと光るフラッシュを毎日毎日見上げてうっとりしていました。
お風呂屋さんは、ほんの50mほど歩いたら着くのですが、その間に、お干菓子屋さんが二軒ほどあり、お店のショーウィンドウを覗き、砂糖や飴で作った綺麗な季節の花が飾られていて、それを眺めるのも楽しみでした。
子供というのは、しつこいから飽きないし、兎に角お風呂屋さんへ向かう道のりも楽しみでした。
いつも行くお風呂屋さんの女湯の脱衣場には、髪をアップにしたお姉さんとちょっと歳の行ったおばさんの2人が常にいて、
籠の整理もですが、お客さんの赤ちゃんや幼児の着替えなどの面倒を見てくれていました。
なので、お母さんもゆったりと髪を乾かしたりできるのです。ほんとに素晴らしいですね。
赤ちゃん時代からのお馴染みのお二人なので、人見知りの私でも、毎日会うのでとても懐いていたように思います。
銭湯に着くと、「はい!万歳して!」と、お姉さんに服を脱がせてもらったあと、裸でおもちゃの大きな箱から、今日遊ぶおもちゃを選ぶのですが、あれもこれもとかかえきれないほど選ぶと、「二つか三つまでにしなあかんよ!」とお姉さんに注意されていました。
結局おもちゃで遊んだ思い出はほぼ残って無く、選んでいる間のワクワク感だけが記憶鮮明に残っているのです。
このnoteで一番伝えたかったのは、
ポンポン缶のKEEPのこと!です。
ポンポンと呼んでいたのは、ベビーパウダーですが、天花粉と呼ばれている事を知ったのは、二十歳過ぎてからでした。
脱衣場には、ベビーの着替えのためのベットが3つくらい並んであって、その正面の壁には、丸いポンポンの缶がたくさん並んでいて、ひとつひとつに、黒マジックで名前が書いてありました。ポンポン缶のKEEPです。
昔は、ベビーパウダーは缶入りでした。私の缶には赤ちゃんの顔の写真がプリントしてあったように思います。
今、ベビーパウダーなんて、おむつかえの後にはたかないし、ほんと、時代ですね。このKEEP缶のことを、職場で話したら、へぇ〜ってびっくりされました。
同年代の方でも、内風呂のあるお家が殆どです。郊外のお家は大抵家にお風呂がありますもんね。
実家では、その頃半径100メートル圏内であれば、5店舗くらいは、銭湯があったと思います。同学年に、お風呂屋さんは、2人以上はいました。今では、みんな閉店しています。
京都タワーの地下にお風呂屋さんができた時は、東京から来た叔母と、歩いて行きました。3歳くらいの私は、ターブロターブロと呼んでいたらしいです。
東京へ、4歳頃行った時も、銭湯へ行った記憶あります。銭湯は、都会の印。
でも、子育て、昔の方が、やっぱりやりやすかったのかなぁ、としみじみ思います。
1人で全部やっている今のママさん、そりゃあ、大変だわ!えらい!
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