錯乱するデザイナーがお役にたてるとわっ!!でもっ!!
これを読み進めながら感想書いてます。
第二章 ライフプロジェクト:自律とコラボレーション の途中です。
ブリコルールとはDIY的にあり物をうまく工夫して何かを作る(ブリコラージュする)人で、ブリコルール的デザインアプローチがライフプロジェクトには役に立ち、多様な社会を運営するうえで重要な要素になる、というようなことが書かれています。
ブリコルールとしてのデザイナーは、モノのコンテクストを解体し再解釈しながら前に進んでいく。いや、モノの意味を一つずつ丹念に定義しようとしながら、と言ったほうが良いだろう。倉庫に蓄えられたモノには、以前に与えられた機能がある。デザイナー=ブリコルールがそのモノたちに出逢うことで、新たな機能や表現の可能性が見いだされる。モノに特別な新たな役割が与えられることで、さらにデザイナーの最終的な行き先、つまり目的も変更されるのだ。(P88-P89)
チート転生者の英雄並みの活躍をするというわけです。
いやー、それほどでもー。
でもちゃんとハードルも示唆されています。
ブリコラージュに基づくプロジェクトは、デザイナーと彼らが見つけたモノとの継続的な対話によるものだ。だから、ぼくたちはこれを「対話型のプロジェクト」と呼ぶ。デザイナーは、モノやそれと取り巻く状況に注意深く耳を傾けることで、進む方向を調整していくのだ。(P89)
そう。注意深く耳を傾ける。
モノ、はいい。状況の中には人が入る。
人の想いや価値判断は、そう簡単に本質を見せてはくれない。
だから対話が重要になる。
おそらく、とても念入りで、時間をかけた対話が。
これは多分、デザイン能力を今すでに発現している多くの人にとって苦手なことだ。
ぼくたちがライフプロジェクトについて議論する際に、ブリコルールを持ち出すととても良い理由は、まさにこの対話的な性質にある。これで、デザイナーの錯乱した状況を避けられるからだ。(P89)
デザイナーは錯乱するんです。
デザイン能力はだれにでもあるというところがポイントですね。デザイナーは錯乱するので、だれかデザイン能力を持った錯乱しない人が必要になってくる。対話的な性質を対モノに発揮するのと、対ヒトに発揮するのは違う経験値が必要ですものね。
心の声がいかに雄弁であろうとも!!
この錯乱の定義がまたおもしろくて、
錯乱した状況とは、デザイナーが「自分に酔って才能を振りかざし、現実を受け入れず、まるで世界の創造主かのように表に出たがること」と、「現実を、選択肢が全くない決まりごとのように従順に受け入れ、自信を適応させてしまうこと」との狭間をさまようような状況だ。(P89)
錯乱しがち。
ほんますんません。
とはいえ、自分の中と物質の中、客観的な人の動きとか、その人物とか、外のものとして対象化できるならまだ大丈夫。いつか錯乱から抜け出せる。
でも、客観益になりにくい自分のコミュニティにこういう態度で挑むのって、むずい。。。
だからこその対話なのだ、とよくわかる。
対話には共通言語が必要になる。
思ったことをテキトーにしゃべっても、多分通じない。
この活動には、共通言語のエデュケーションが必須になるのではないだろうか。
つぎの見出しは「コラボレーション」
会話に使える言葉を増やさないと。。。。
画像はunsplashより。