リアルな場所とのつながりの意味
これ読んでる感想です。
ただのリンクです。アフィではありませぬ。
なんとなく、場所ありきのコミュニティをちょっとなーと思っていました。実になんとなくなんです。場所嫌悪みたいなものがあるのかも。箱ものへのイメージもあったり、ネット信奉でもあったり、ノマドっぽいことへのあこがれでもあったりするのだと思います。
ですがその反面、場は動けないという現実があります。地域振興やら、過疎化やらについては、その場でなくてはならない。どこにも根付かない人をいっぱい作れば、持たなくなる場はいっぱいある。でも、自分がどこかの場に括り付けて動けなくなるのは嫌だ。ノマドっぽい生き方をする人が訪れるための地方はあって欲しい、という爆裂に身勝手な希望があったりする。
だから自分もどこかの場所に結び付いたコミュニティ―に参加する意義があって、場についてもっと考えなくてはと思った。
たとえば、地方の休耕地がソーラー発電に覆われていく話。
まぁまぁなバッドストーリーですよね。地方はもう住む魅力も訪れる魅力もなくしてただただ都会に電気を供給する場所になっていくわけですから。
「田園風景」の意味はどこにあるのか?
かつては、それが最も効率の良い生産の風景だった。
生産性を追求した結果生まれた風景だ。
けして見ていて心地よい風景を目指したわけじゃないと思う。
でも、目指さなかったわけでもないと思う。
そこまで生産性一辺倒ではなかったはず。
色々な選択肢がある中で、デザインされていたはず。
生産性だけに目を向けると、そのデザインの価値を見失うことになる。
だから、事業としての採算性だけを求めると場を維持できなくなるのなら、どうするか?
どうにかできるのか?
場に結び付くコミュニティのデザインが、どれほどなされてきたか。
まだまだこれかなんじゃないか。
インターネットを中心に考えていると、どこでもいいような気になってくる。そこでなくてはならない理由はなくって、目についたから、紹介されていたから、ということになりがちで、そこにももやもやしていた。
でも、この章では
バーチャルな形態に向かうソーシャルネットワークの展開が、地域が見捨てられる方向に手を貸しているのは確かだ。
という面はありながらも、
・・・それらのテクノロジーはコミュニティーの蘇生やローカル地域に手を差し伸べる貢献をしているのだ。
このポジティブな方向に向かうために、コミュニティの概念だけでなく、コミュニティと場の相互作用の概念についてもアップデートしなくてはならない。
ですって。
これもまた、わくわくするお言葉。
場について、もっと考えよう!
※写真はunsplashです。
https://unsplash.com/photos/Z95viY3WaZs