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サボテンのデザインの様に自然なデザインの社会へとアップデート?

これ読んでの感想日記ですわ。

ですわと言っても、ご令嬢様の語尾ではなく、大阪のおっさんの「ですわ」ですわ。

まだ二章「ライフプロジェクト:自律とコラボレーション」の途中です。

一ページ一ページ、目からうろこポイントがあって、もうはアハアハいいながら読んでいます。

一人ひとりが全責任を負う・・・これは多分、トップダウン式と言いますか、組織のリーダーの在り方とか、そういう観点からの話だと思うんですが、何かプロジェクトを起こそうとするとき、自己完結するように責任をとらえると制限されるので、それも分散すべきというような話の流れから、では一体どこまで実現可能だと考えるか、というくだりで出てきた次の一文でアハーとなりました。

「実現可能性の領域」とは、必要な時や機会が来れば使えるようになるぼくたちの社会の自然、文化、経済、技術などすべてのことである。該当する各分野が、それぞれの実践を自由に展開できる空間も含まれる。つまり「実現可能性の町域」とは、現実に不可能ではないすべてのことである。(P94-95)

「必要な時が機会が来れば使えるようになる」だと?

この前提として、デザイナー(デザイン能力を持っているすべての人)が蓄えている知見やアイデアの種は、デザイナー自身も全容を把握していないので、そもそも全体像なんかよわからん、という話がありました。

ようわからんもんをようわからんなりに作っていくのがブリコルール(DIY的にあり物を使って上手に何かしらを作っちゃう人のこと)的だという話です。

そこからの実現可能性の領域の話になっていくのですが、これって、生物の進化の仕組みと似ていません?
遺伝子の中には使っていない情報がたくさんあって、環境に合わせて発動するというやつ。環境は状況に合わせて倉庫から使えそうなものを持ってくるって、もしかして、ものすごく生き物的に自然な行為なのでは。

自由って何?っていうとき、一人では決定できないことを考えていくと、人とのしがらみに突き当たってモンモンする、みたいなことがあるけど、そこにも自由の本質があるって考えるわけですよね。

じゃ、君の倉庫に何が入ってる?って。

この観点、すごいですよね。
誰かを支配しようとか、競合をせん滅してしまおうだとか、多分そういうことは起こらない。そういうのはトップダウン式で下々の価値判断を奪わないとできないから。

もっとも、やさしさや倫理観を担保するものではないと思うし、イノベーションが何かを壊していくことは普通にある。伝統的なものをすべて保存できないでしょうし、新しい何かが古い何かと競合することは普通にあると思う。だから話し合いなのだろうし、だからブリコルールが最適。

これって、全体の設計図が不要って話なのかな。

いや、不要というわけではないけど、設計図ではない何かがあるという話かな。淘汰圧が最適解を出すというのは乱暴すぎるのかな。でも、そういう話のようにも聞こえるし、倉庫を充実させることで、解の質を上げていくという話なのかも。これは浅い理解かな?

その点は後半のところで出てきそうなので、今は置いておこう。


写真は毎度お世話になってます。unsplashです。


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CavyCraft(佐々木堅次)
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