涙の訳は
韓国での出来事は終わってからまとめるとして、今日は今日のことを。
今朝の朝日はエネルギーにあふれていた。暖かくて、外で食べる朝食は格別だった。大学生のヘタウママジックもまたいい。穏やかな波長。
今日、久々に泣いた。
いつぶりだろうか。映画を観て、そこに描かれた家族と、小さな男の子の一生を思って泣いた。
そうか、男の子と家族は、自分の井戸の深い奥にある水を組み上げる装置なんだ。大切にしたかったのにできなかった悔いを思い出させるスイッチなんだ。
映画の中の男の子は、きっと今の息子くらいの歳で、家族のために人生を捧げる決断をすることになる。学校も、仕事も、何一つ自分がやりたいことは出来なくて、それでも人には文句ひとつ言わず、家族のために生きた。しかしそれゆえに、彼のそばには彼を支える妻がいて、支える親友がいた。願う人生ではなかったかもしれないけれど、それを全うしようとしたからこそ、かけがえのない同士に恵まれた。
人が生きる、生きているということの本質的な意味は何なのだろう。
家族に恵まれること。仕事に恵まれること。お金持ちになること。自分で人生の選択ができること。
いろいろある。
私は、生きる目的を見つけることだと思っている。
生きる意味が、生きる目的を見つけること。それはきっと、自分ひとりがなんとなく頑張って見つかるようなものではなくて、だからこそ独り占めするようなものでもなく、たとえそのために歩む道の途中で人生が終わってしまおうとも、まさに一遍の悔いもなく死んでいけるようなものなんだろう。
映画の主人公はラストに、現実では2度と再会できなかった父親の腕の中で泣いた。とても辛かったと声に出して。そうしてまた、穏やかな日常が続き、物語は終わる。
そして私は再び考える。自分はなぜ泣いたのかと。
その理由はもう一つあった。自分は人生をまだ、映画の主人公ほどに生きていなかったからだったんだ。自分の人生にはまだない美しさに、涙したんだ。
わたしは、わたし自身が涙するような人生をこれから送りたいと思う。そしていつか息子が、私の子として生まれてよかった、と思ってもらえるように。それがいつになるかは分からない。それでも今こうして、生きる目的を見つけることが出来た私は、幸せだ。