見出し画像

自己紹介|はじめてのnote 【私の人生を変えた選択】

はじめまして。フリーランスのasamiと申します。
主にライター、メディア運営、デザインなどをしています。

7年前に東京から宮城県に移住して、子育てしながらリモートで働いています。身の上話を本音でできる場所がほしいと思い、noteをはじめました。

(これまで何度も「下書き」は書いているのですが、勇気を出して「公開」を押したのは今回がはじめてです)

ライフネット生命様の企画 #自分で選んでよかったこと  をテーマに自己紹介を書いてみたので、よかったら読んでくださると嬉しいです!


【私の人生を変えた選択】

#自分で選んでよかったこと

私はほとんど何もかも、自分で選択したことがないような子どもだった。

いま6歳の娘を育てている私が、母親目線で6歳当時の私を見つめてみると、うーん、ちょっとおかしい子だなあと思う。

ほぼ感情のない虚無ガール

自分の主張がない子ども。感情の抑揚がなく、怒ったり喜んだりしない。嫌いなものもなければ、わざわざ言うほど好きなものもない。

迷惑はなるべくかけず、のほほんとご機嫌。何を期待されているかはわかるので、優等生とみなされがちの「手のかからない子」代表だった。

手のかからない子代表

どうしてそんなことになったのか

理由はたぶん、姉の逆張り。3歳上の姉は個性的な天才で、今は仕事で大成功している。その妹として生まれると、なんとなく遠慮してしまったのかもしれなかった。

限られた親のリソースをなるべく割かないように、と社会人風情の感覚があったのか無かったのかわからないが、とにかく「おとなしい良い子でいるのが吉!」と当時の感覚で思ってしまったのであろう。

そんなわけで私は人知れず個性のない優等生ロードを直走った。微塵のこだわりもなく姉のお下がりの服を着て、姉と同じ習い事をした。成績も良かったけれど、姉には少し及ばなかった。

自由研究で行き詰まると、姉が猛烈にアイディアを出して代わりに作ってくれたりもした。それは素晴らしい作品でうっかり何かを受賞してしまい全校生徒にプレゼンする羽目にもなった。

心のこもらない謎のプレゼンを実施

あまりに主体性がなくて情けない人生。母親になった今でこそ「ちょっとお母さんとお姉ちゃん、私の主体性を伸ばしてあげて〜」と思うけれど、当時は無力な自分が当たり前だった。

しかもそんな無力感でさえ表現できない。強がって問題のない子のふりをした。

感情を出せない子の行く末は

それが続くとどうなるか。受身の人間関係が始まる。

おとなしくて害の無さそうな私なので、仲の良い友達グループはできた。だけどそれは果物の旬が変わるくらいの間隔で、仲間はずれが発生するグループでもあった。

自分が仲間はずれにされた日には「人生終わった」と絶望したものだった。今となってはばかばかしい、スケープゴートで団結力を高めちゃってるのねくらいの認識だけど、当時はそうはいかない。そのうえ好きではない男の子から謎に好かれて、クラス中から冷やかされ、みじめな気分になった。

その結果の私はマクドナルドのハッピーセットのおまけである「グリマス」を仮の神として崇め奉り、独自のお祈りを開発して明日の幸福を祈るグリマス教唯一の信者と化したりするくらいにはおかしくなっていた。

グリマス (ぐります)とは【ピクシブ百科事典】より引用

しかしこの絶望を誰にも話していない。親にさえ感情を見せられないのが虚無ガールの行く末だった。

絶望を抜け出せた理由

それをどうやって抜け出したのだろう。あまり覚えていないが、小学校高学年から一緒にいて楽しい友達ができてきた。

学校の授業が面白くないので友達と塾を立ち上げたり(ただの勉強会)、クラス劇の脚本を書いたり(学園モノでタイトルは『担任は二人羽織』)、クラスを軍隊のように組織化する先生が担任になった時に陰で不審さをネタにしたり(つけたあだ名は『ファシズム』)。

わかりやすくはないけれど、感性をちょっとだけ表現しながら楽しく生きることができてきた。少しは自分で選択ができるように成長したのだろう。

ささやかな夜明け

だがしかし。感情迷子の虚無ガールにとって最大の試練がやってくる。

英語力ゼロでオーストラリアの現地中学校へ

父親の仕事の都合で、中1でオーストラリアに引っ越した。

日本人学校に進む道もあったが、バリバリに現地進学校に通うつもりの姉とまた差が開いてしまうのも困る。またも主体性のない選択で、私もしぶしぶ現地校に入ったのだった。

姉は「桜蔭・女子学院」のような進学校に入学し、私は「聖心女子」のようなクリスチャン学校に入学させていただいた。

全く言葉が喋れないトンチンカン日本人の私とクリスチャンの皆様。びっくりするくらいコミュニケーションが取れない。ここでの日々はネタが豊富なのでまたいつか書きたい。

ほんとにこのくらいクリスチャンな校舎だった

姉の背中を追いかけた

事情があってオーストラリア内で引っ越すことになった。そのタイミングで「聖心女子」が遠くなってしまい、少しは近かった「桜蔭・女子学院」に転校したいと親に申し出た。

姉との学力が開いていることへの焦りがあったし、二年間のドタバタで少しだけ英語がわかるようになったからだ。

「妹さんなら、ぜひどうぞ」
すでに首席級の成績をおさめている姉の妹だったので試験なしで入学した。裏口入学ごめんなさい。北半球から四半世紀ごしの謝罪。

24時間、学べますか?モーレツ勉強学校!

この中学校は、入ってみたらとんでもなかった。学力を向上させる仕組みがあまりに完成されすぎている。

1コマは35分、それが9限まである。そのうち半分は「自習」の時間だ。

全10科目に毎週「Assignment(課題)」が出され、それを毎週火曜の朝に必ず提出しなければならない。

もしも提出できなければ「罰」として課題が追加される。課題の負債が膨らみすぎて、退学する人も少なくなかった。

しかもこの課題、中学校の宿題だからとあなどるなかれ、「シェイクスピアの喜劇・カエサル王を読み、登場人物であるカエサル、ブルータス、アントニウス、オクタヴィアヌスの性格の違いを分析して論ぜよ」みたいな高難度レポートを英語で執筆しないといけない。

それを毎週1本×10科目。親切なことに月末には学力の学年ランキングを決めるテストまで完備されている。

ルーブル美術館のカエサル(本文とはあまり関係ない)

誰よりも英語が不自由なことに関しては疑いのなかった私。だけど根っからの優等生根性で絶対に「罰」は受けたくなかった。そんなわけで、私は「鬼」勉強した。

ネイティブの3倍以上の時間がかかるから、1日20時間レポートを書き続ける日もあった。

ストレス発散はマリオカートで緑のカメを爆走させること。それが終わったらすぐ課題を広げ、モーレツに勉強した1年間だった。

この時に左耳の難聴を発症して最近手術してるんだけど、もしかして頑張りすぎていたのかもしれなかった。

そしたらだんだん論文がうまく書けるようになった。徹夜しながらすべての締切を守り、「罰」も1回も受けなかった。そういう人はほぼいなかったから(姉も罰は受けていた)優等生根性、恐るべし。

1年間で学力の学年ランキングがビリから中の下くらいに上がった。私にとってビリは当たり前だったので、先生に認めてもらえて嬉しかった。

これは何かの間違いかもしれないが、東洋史で学年1位、美術史で学年7位の成績までいただいた。あと明治維新のレポートで何か賞もいただいた。

感情のない虚無ガール。生まれてはじめて死ぬほど努力して、努力以上の成果を得た瞬間だった。

とんでもなく読んだし、とんでもなく書いた

燃え尽きた。その時、私は一つの選択をするのである。

家族と離れ、一人で日本に帰国する

私の人生は、いつも姉の背中を追いかけていた。そのことで得られた力はたくさんあるし、何より姉が一緒に遊んでくれて楽しかった。

だけど、姉の存在を意識せず、本当に私が何をしたいかと考えたら……。私は日本のエンタメに触れて暮らしていたいなと思ったのだった。

実は3年間の過酷な現地校生活を支えてくれたのは、一時帰国の際に自分で録音した「ラジオ」と、叔母が録画してくれた「ドラマ」だった。ロンバケもラブジェネも月9はオーストラリアで鑑賞済みだ。

それらのコンテンツが無料でいつでも視聴できる日本という名の桃源郷に帰りたい!頑張りすぎて燃え尽きた時、そんな思いが強く芽生えた。

それに私は「青春」を経験したことがなかった。友達がたくさんいて、遊びにいって、ゲラゲラ笑って……。そういうことを、このままでは経験できなそうだ。それだと一生後悔してしまう。1日でも長く青春がしたい。

そんな思いで私は家族のもとを離れて日本の高校を受験することにして、親も私の選択を応援してくれた。帰国後は祖母が一緒に暮らしてくれることになった。

ドキドキの2校限定高校受験

受験資格を満たす、行きたい高校は2校だけだった。

1校目は不合格。2校目も落ちたら、また1日20時間勉強の日々だ。どうしよう、これ以上続けたら死ぬかもしれない。

心底ドキドキして掲示板を見ると、私の受験番号があった。やった!親も姉も、心から私の合格を喜んで祝福してくれた。

自分で生き方を選んで本当によかった

高校生活は最高に楽しかった。とにかく良い学校で、私は15年分のたまっていた感情を爆発させるように、毎日爆笑しながら好きなことをした。

友達の個性を活かす企画を考えるのが好きで、学校行事や部活ではアイディアを出しまくり良いパフォーマンスをつくることに熱中した。泣いて笑って、親に迷惑かけて。私はやっと子どものように、感情で生きていた。

感情で生きたら好きな友達がたくさんできた。20年経った今も高校の友達は変わらず大切な存在だ。あの時の決断が本当に分岐点で、ここから自分の人生が始まったのだろう。

あの選択をしていなかったら、私は姉のようにすごいキャリアを歩んだかも知れない。だけどまったく後悔がないのは、これが私だったからだ。

そしてそれは過酷な現地校生活を含むこれまでの人生がなければ到達できなかった世界だ。家族、素敵な人生をありがとう。自分で選んで、よかった。


18歳までの人生の記録を、小さい頃の私と家族を思って書きました。長文を読んでくださった方、ありがとうございます!

#自分で選んでよかったこと
#はじめてのnote
#自己紹介
#オーストラリア
#フリーランス
#ライター


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?