【映画】ブラックベリー、ブラックバード、私は私
これは、"そっち側"ではない女性を描いてくれたストーリーだ。見終わって、まず第一声、そう思った。
当たり前に愛といえば、異性愛を差し、恋愛や結婚や出産、育児、男性から愛された経験があることが、女として価値がある。それだけがスタンダードだと決めつけて、目の前にいる違う生き方をしている女性を、傷つけて蔑んで、"こっち側"の私達は女として幸せなのよ、勝ち組なのよ、価値があるのよ、と。
本当はそう嘘ぶいている、100%幸せ、満足していて女として勝ち、価値があると言い切れないのは、彼女たちも分かってる。やっかみ、なんだろうな。独り身で生きてるエテロが羨ましいから差別したりする。シスターフッドにならないのは、お互いに損なんだけどなぁ。
結婚とペニスが女性を幸せにするなら、なぜ結婚してる世の中の女性は不幸なの、と一刀両断に言い放つエテロ。痛快。
ムルマンに恋をしたことがあるか?と聞かれて、子供の時に綺麗で生き生きとしていた、皆の憧れの女の子が好きだった、という話をするエテロ。
分かる。美しいものを、ただ素敵だと思う気持ち。男とか女とか、そういう枠から外れて、美的なものを素直に愛する気持ち、子供の時からあったんだなー、エテロは。
ブラックベリー、その自然と共にひとりで過ごしたという。つまり自然の強さ、美しさ、偉大さ、生命力の象徴かな、それが家族であり友達であり、恋人であったと言うエテロ。彼女の芯の強さは、自然のうつろいや豊かさ、たくましさをじっと見つめて、分けいって触れてきたから育まれたんだろう。
そんなエテロの話をじっと聞いていたムルマンが、これからは僕がブラックベリーになろう、と言った瞬間に、めちゃくちゃジーンとして泣きそうになった。パートナーとして最高なスタンス。この最強の愛され方!
村の近所のいつも集まる女性たちに、男に愛されたことがないからよ、とか、子供を産んでないからとか、更年期障害は先輩面して、ほてりやらは数年で治まるわよ、とか言われても、そう、としか言わず反論しないエテロ。いつも"こっち側"が正しい、普通だという価値観でしか話せない人たちと、狭い環境で過ごすのは何とかキツイことか!
奥さんがいるムルマンに、トルコで何もかも捨てて2人で暮らそうと提案されるけど、今さら人とは暮らせない、好きに生きてきたから、と自分で自分を幸せにするからと断るエテロ。
だけどまあ。エテロは人と関わったことで、ひとりで好きに生きてきた、リタイア後の自分の人生、という描いていた生活を大きく狂わされる。子宮ガンになったと思って病院に行くと「9週目かな。おめでとうございます。」と言われてしまうのだ。
独身で恋人もいない、セックスの経験もムルマンとそうなるまで無かった、いつもいつも"そっち側"に入れてもらえないどころか、バカにされたり変わり者扱い。ひとつハードルを越えたら、まだ次の"そっち側"があって、そこを越えて経験しないと、人としてダメ、劣ってる、みたいな。エンドレスなんだよねー。分かるわーとひたすら共感する話だった。
さぁ、エテロはどうするんだろう。自分ひとりではなくなる。おそらく。ままならない人生、誰かの責任を持ってしまう人生、誰かに迷惑をかけたり、助けてもらったり支えてもらう人生、たぶん、それが待ってる。
それは結婚しようがしまいが、子供がいようがいまいが、関係なく誰にも訪れる。
映画の帰りに立ち寄ったカフェで、苺とベリーのパフェをたのんだ。たまたまブラックベリーが入っていて、それはとても甘く、エテロはこれをいつもひとりで摘んで、味わっていたのか、と思いをはせたのだった。