『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎(2017)医学書院
中動態という語をご存知だろうか。
中動態という言葉に初めて出合った日本人は,おそらく,能動態と受動態の間に位置する態だと認識するにちがいない。
中学校から高校へと至る英語学習の中で,「be動詞+過去分詞+by」のような語形を覚えさせられたり,散々その変形をさせられたりした体験をもっていると推測するからである。
そして,その「中動」といういかにも間に位置するようなネーミングから言葉を意味を予想すると考えるからである。
しかし,本書は「中動態」という用語を,誤解を招くネーミングであると一刀両断している。この語法の枠組み,ひいては,私たちが習得している文法の枠組みが思考を停止させるからである。ただし,この名称を変更することでこの不遇な態の歴史を風化させてはならないと安易な変更を認めず,この用語を存続させた上で我々の認識の変容を求めている。
つまり,「中動態とは受動態に先んじて存在した態であり,元々能動態と対になっていた態である」という歴史的事実を元に,我々の言語に対する認識を改めようとする姿勢を求めているのである。
例えば,本書では,能動と受動を区分するにあたって,「意志」に着目している。
「意志とは一般に,目的や計画を実現しようとする精神の働きを指す。」(p22)
「意志は自分や周囲を意識しつつ働きをなす力のことである。」
「ある人物の意志による行為と見なされるのは,その人が自発的に,自由な選択のもとに,自らでなしたと言われる行為のことだからである。」
「意志は物事を意識していなければならない。つまり,自分以外のものから影響を受けている。にもかかわらず,意志はそうして意識された物事からは独立していなければならない。すなわち自発的でなければならない。この矛盾をどう考えたらいいだろうか?」(p23)
意志を中核に考えてきた私(たち?)にとって,意志そのものの定義への批判は,まさに“問い直し”である。そもそも自発的とはどのような状況を捉えたらよいのか。教師の指導性が働く場で動く子どもたちの姿は,本当に意志によるものなのか。私たちの当たり前,思考の枠組みを問い直す契機を与えるものとなる。
そう。私たちの思考は言語によって縛られているのである。規定されていると言っても過言ではない。現代の能動と受動の関係では説明できない言葉や現象が多数存在している。それらを引っくるめてメタ的に捉えられるのが本書である。
全く,中動態にふれられない紹介になってしまったが,一番は,中動態を認識することで起こる思考の広がりである。本書を読み進めながら,起こるコペルニクス的展開を体験してほしい。