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思いやりの心を

 冷たくされたこと、意地悪されたことはなかなか心から消えない。だが日々の生活の中で、新しいことがその上に積み重なるとだんだん下済みになっていき、何かのきっかけで思い出すというふうになってしまう。忘れたい、という思いがあえてそうさせるのかもしれない。反対に優しくされたことは、いつも心の中にふんわりと漂っているような気がする。
 ある女性が投稿した文を読んだ。面接を受けに行く朝、混雑する電車に乗ろうとして後の人と接触してしまい、靴の片方が線路に落ちてしまった。すると「すみません、踏んでしまって。今駅員さんを呼んできます」と一人の女性が声をかけてくれた
  駅員さんが靴を取ってくれる間、「ここに足をのせてください」と自分の持っていた書類を広げ、足をのせられるようにしてくれた。駅員さんが靴を拾い上げてくれて並んで次の電車に乗った時、感謝の気持ちを述べ、これから面接に行くことを話すと、「頑張ってください」と励まされた。混雑の中で誰が足を踏んだかなど分かる筈もない。それなのに自分も降りて靴を拾う手配をしてくれた、女性の親切が忘れられないというものだった。黙ってそのまま電車に乗って行ってしまっても何の痛みも感じないのが普通になってしまっているのに、他人へ思いやりの心を持ち、行動に表す人がいたことが嬉しいし、自分でもそうありたいと思う。
 思いやり、優しさというといつも暗い田舎道で声をかけてくれたお巡りさんを思い出す。母の実家への田舎道を主人と私と子どもたちが乗った車が急いでいた。月もなく、街灯などある筈もない田舎道だ。道の両側は田んぼ、道は砂利道、真っ暗だった。突然、赤い懐中電灯が振られ、車を止められた。砂利道でスピードは出ていなかったと思うが、主人と私は不安な気持ちのまま車を止めた。「どこへ行かれるのですか」と質問され、行き先を告げると「気をつけて行ってください。今遠くから来た車が大きな事故を起こしているので」と穏やかな話し方で注意された。あのお巡りさんは、今どうしているだろうか。
   あのときの穏やかな注意を思い出すと、「気を付けなければ」と思う。取り締まりは、点数を取るためや罰金を取るためにするものではないはずだ。事故を防ぐという大きな目標があると思う。それならば居丈高に迫らなくてもいいはずだが、なぜお巡りさんの話し方は押し付けるような強いものなのだろうか。中には悪質な人もいるので、優しい言葉だけをかけているわけにはいかないと思うが、優しい言葉、思いやりのある言葉や行動というものは、触れた人の心にいつまでも残るものなのだ。
                       (H22.3.11)


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