最初の投稿は
初めての投稿は思い出深い猫の話を書こうと思ったのだが、少し重たい話になってしまいそうなので、私の息子で次男の話を書こうと思う。
5月15日、間もなく次男の誕生日がくる。毎年何もしてやれないので、『おめでとう』のメールだけでも、と思って送信している。48歳になったと思うが、子供の年齢も覚えていられないほど年数が経ってしまった。
生まれたときは3080gしかなかった。長男が3700gでしっかりした赤ん坊というよりは普通よりは子どもという感じで生まれてきたので、小さくて心配なほどだった。病室に連れてこられて、おむつを替えるのに普通サイズに作ったおむつが長くて、どう当てていいのか分からなくて何度もやり直した。3時間くらいは黙って眠ってくれるので、育てやすい子だった。活動的な子で、三輪車も自転車も苦労せずに覚えてしまった。
あるとき家への曲がり角で、突然「お母さん『い』あるよ」という。何のことか分からず、「どこに?」と聞き返すと、「ほら、ここだよ」と指さした。そのころこの区域では区画整理が始まっていて、市の「ご迷惑をおかけします」という看板の最後に『いわき市』と書いてあるのを指さした。「その下はなんていう字なの」と聞いても「分かんない」という。『い』という読み方をどこで覚えたのかは分からないが、それをきっかけに字の読み方をどんどん覚えていった。特に教えた記憶はないので、周囲からの刺激で覚えたものらしい。主人が「カタカナも読めるみたいだ」といので、身の回りのカタカナで書いてあるものを読ませてみると、殆ど読めた。
小学校入学後は、天才でも神童でもなく、算数に苦労する普通の子どもだった。近所の子が剣道を習っているのをみて「行きたい」と言ったが、年齢や階級ごとに練習時間帯が違うようだったので、勤めていた私は遅い時間帯の送り迎えは出来るかどうか不安があったので、ちょうどその年に結成された少年サッカーチームに入ることを勧めた。レギュラーへの道は遠く、補欠の日が続いたが、1日も休むことなく頑張った。中学校でもサッカー部を新設することになり勧められたが、バレー部に入った。県大会でも素晴らしい成績を収めていた部だが、当時の指導者はいない、部員は減少で、廃部の危機にあった。「廃部になるかもしれない」とがっかりして帰った時、「一人が一人ずつ部員をさがしてくればいい」という主人の言葉があったからかどうか、部員の頑張りでなんとか部として認められる人数がそろった。顧問がバレーボールに明るい人ではなかったらしく、苦労も多かったようだ。3年生の1学期で他の人が受験の受験のため部活をやめても、最後まで続けた。
就職にも苦労した。宮城県で社会科の免許一つで採用試験に合格するのは大変なことだ。教師には絶対ならないと断言して、いくら勧めても教職の単位を取ろうとはしなかった。大学4年の夏、アルバイトでプールの監視に行っていた小学校の先生の言葉に動かされて、途中から志望を変えた。当然4年の在学期間では単位を取れず、聴講生として1年残って必要単位を取った。採用試験がうまくいかず、講師をしながら試験に挑戦している頃、主人が「頑張れ」と言ったことに「こんなに頑張っているのに、これ以上どう頑張るの」と反発したことがあった。1本の藁のぎりぎりのところだったのだろう。主人の死後、本人もそのことを悔やんでいた。今、教師として多忙を口説きながも頑張っている。新聞やテレビで口に出すのも恥ずかしいようなことをしている教師が沢山いる。それぞれ事情はあるのかも知れないが、片隅で真面目に真剣に子どもたちと向き合っている教師が大勢いることを忘れず、その人たちに迷惑をかけないように行動してほしいと願うばかりである。
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