予知できれ
小泉八雲、外国に生まれ育ったのに、日本を愛し、日本に住み、日本の古い話を美しく書き残した。「耳なし芳一」の話は有名だが、芳一が平家の霊に連れられて琵琶を演奏するというところで、大きな門の前に着くと、「KAIMON,KAIMON」と案内役の武士が叫ぶ場面が印象に残っている。それは英訳された文だったので、英語で言っても不思議ではないのに、なぜか日本語の「開門」という言葉を使っている。そしてそれが重々しい響きで、暗い夜の大きな門の前でこだまする風景が心に残っていて、いつもその場面を思い出す。その八雲の書いた話の中に、「占の話」というのがあるそうだ。随筆でその一つに、昔の中国の話が出てくる。
ある男が瓦を枕にして眠っていると、1匹のねずみが顔の上を走った。怒って瓦を投げつけたがねずみには当たらず、割れてしまった。男は軽率を悔いて破片を眺め、そこに刻まれた字に気づく。「卯の年の4月17日に、この瓦はねずみに投げられて砕ける」男はあまりの的中に驚き、焼く前に粘土瓦に予言を書いたという老人を探しに出かける、というものだそうだ。
もしこのように先々のことが予言できたらどんなにいいだろうと思う。が、一方あまりに先々のことが分かっていたら、楽しみも喜びもなくなってしまうだろうとも思う。気に入った茶碗やカップを見つけて買うのは楽しいものだ。だがこの茶碗は何月何日の何時に落として割れてしまうと分かったら、買う気持ちも失せてしまわないだろうか。それまで大切に使おうという考え方もあり、それは人それぞれ違うだろう。予知能力があれば、とも思うが、特別な力もなく、失敗したり、がっかりしたり、喜んだりを繰り返す日々もまたいいのかもしれない。
(H24. 2.2)
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