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【Legacy Ocean Report】#00 砂時計が動く時

電脳都市784番、トッシャーシティ。午前0時。
黙祷するように静かな町を、遠鳴りと共に微かな振動が揺らした。
震度1相当、しかし皆聞き耳を立てていたため、気づかぬ者はいなかった。
それはサイレンであり、時報であり、角笛であった。
いよいよその時が来たのだ。

十数年前のこと。電脳都市バラバの沿岸区画が原因不明のデータ侵食によって突如何百キロも彼方まで拡張され、広大な電子海洋空間が「発見」された。疑似水圧感や疑似潜函病といった未知のファントムセンスを乗り越えてこの海に潜行を試みた人々が見たものは、まるで生物のように振舞うプログラムや海底から噴き出す大量のデータダスト、そして旧時代の電子情報の残骸だった。特に、数年前の災害でサーバーもろとも消失したはずの、戦前の写真ライブラリを格納したメモリーセルが発見されて以来、この海は旧時代の情報遺産が眠る宝の海としてコミュニティフォーラムの一部で大きな話題となった。

それから十年余り、バラバはその様相を大きく変えていた。電子のフロンティア海洋とそこに眠る未知の情報遺産を求めてサイバーダイバーが激増、人口は当初の20倍の16000人にまで膨れ上がっていた。実際にはほかの都市からわざわざ来訪する出稼ぎダイバーもいたため、有効人口は二万人近かったとも言われている。

激動の中で運用体制そのものも変わり、都市名は市民投票の結果なし崩し的に「トッシャーシティ」へと更新。そしてバラバの海を書き換えた、謎と危険と旧世代の遺産を抱えたこの海は、いつしか「レガシーオーシャン(遺産の海)」と呼ばれるようになっていた。その中でも最大の採掘候補エリアとされていたのが、沖合43kmの海底に眠る旧世代の巨大電子施設群「20世紀都市」だった。

これはかつてメガロチェインが完成する遥か昔に築き上げられたサイバースペースの一種で、この時代に蓄積された無数の情報遺産がここに眠っているとされた。この数か月に渡って電子潜水によるトレジャーハンティングが過熱していたのは、20世紀都市が位置する35番区画がオーバーロードで破れ、崩壊する可能性が出ていたからだ。

だがそれももう終わりだ。

20世紀都市の崩落に伴う衝撃波は津波のごとき泥流を四方八方へと発生させ、海底は周囲50kmにわたってペースト状のデブリに飲み込まれた。電子ケルプの森であるグリーンメイズは半壊したものの、デブリを受け止める盾となってトッシャーシティへの被害を最小限に抑え込んでくれた。
もし何の障壁もなかったら、湾岸地帯が壊滅していたという試算もある。

それから一か月。

「トッシャーシティ湾岸部被害箇所21ポイント、修理コスト平均3000。盾となったグリーンメイズの損傷率は49%、しかし1日0.5パーセントで回復している…」
オケアノスは事務室で各地から届く書類に目を通す。レガシーオーシャン遠洋基地の管轄もこの街に属しているのだ。
「グリーンメイズはコアさえ無事なら無制限に再生するという仮説が、図らずも実証されましたな。材料のデブリはそこら中にあるわけですし。」
レザノフが書類の束を抱えてやってきた。
「そうだな、だがそうも言っていられない者たちもいる。この一か月で、良くも悪くも都市の様相は大きく変わってしまった。」
その通り。この街はここ一か月で大きくその姿を変えた。海底マッピングの多くが再構築を迫られ、しかも海底は分厚いサイバーデブリに覆われている。中には衝撃波の直撃を受け、地形そのものが変わってしまったところさえある。

レガシーオーシャンに産業構造を大きく依存していたトッシャーシティは、方針転換を余儀なくされた。ポータル人口16000人のうち5000とも6000ともいわれた潜窟家…トレジャーハンターは激減。何しろ最大の"見えてる宝"が消え、あとにはクリーム色の荒野が広がっているのだから。デブリが崩落前の水準まで引くには、年単位の時間がかかるとも言われている。海底で宝探しをする上ではデブリペーストは邪魔者でしかなく、採算をとるのは以前と比べて非常に難しくなっていた。その結果、関連産業を含め5500名余りがポータルから撤退した。

だが、多くの住民はそんなことを気にしても居られなかった。沿岸部の水の濁りが収まるのを待って、被害状況を確認する。中心となったのは、ポストトレジャー時代を見据えて電子生物漁猟や観光を狙っていた者たちだ。日和見な者達はいつか引く、その時が来ただけと割り切っていたのだ。幸い、観光海域のアナザー・トーキョーは海底台地の浅瀬だったため難を逃れた。

「難を逃れたといってもあと50mまでダストが迫っていたと思うとぞっとしますな。ラピスマングローブへの影響はまだ未知数ですが。海上のビーコンキューブは比較的軽微な被害に留まっていますが、フローティングマーケットが大きな被害を受け、存続検討の会議が始まっていると言います。」
「フローティングマーケットは深部探査の重大な拠点じゃないか。また地図の拡大が遅れることになるのか…虫に食われた地図の。」

「オケアノス、あと30分で出発だ。」
ドーリスが荷物を背負ったまま、ドアの向こうから大声を上げた。
「はて、何かありましたか。」
大きな頭をきょろきょろさせるレザノフ。
「都市間連合…『レッドチェイン』の会合だ。決まったのはつい先日のことだ。」

都市間連合レッドチェイン。
それはメガロチェインを構成する数千の電脳都市のうち、いくつかの都市が結んだある種の同盟関係である。未知のサイバースペース、エクト・マスコット現象、概念生命体。メガロチェイン上で発生する不可解な現象の調査解析を目的としている。都市間で情報共有が進む中で未解決現象が類別され、これらの現象がメガロチェインの根本的なシステムによるものである可能性が示唆されたからだ。

メガロチェインは一つの企業や団体が運営するサービスではない。ネットワーク上に公開されているソースコードを基に稼働プログラム、およびサーバーとなるコンティネントが構築され、それぞれのマスターによって整備運用される。ナンバーの振り分けやサーバー間のルート開拓はどれも長年コミュニティ内でなされたものであるが、肝心なオリジナルのソースを配布した人物の詳細はいまだ謎に包まれている。

そのためメガロチェインを離脱する向きもあったが多くは居座り、ソースの安全性の分析に努めた。その時点で問題なしとみなされたコードのどこに、これらの不可思議な現象を起こす要素があるのかはわかっていない。当初ただのエラーと思われていた個々の要素は、実はもっと深刻な現象の一部ではないのか。その危機意識に賛同する都市十余りからなる、小さなしかし強い鎖がレッドチェインである。


その本部があるのは……電脳都市34番、アプリコット。
他の電脳都市と隔絶されたまま十数年の時を過ごしてきた「忘れられた都」だ。