
I’m thirsty thirty but only expensive cocktail is accepted (2/2)
…来てしまった。お誕生日会。
みんなで華の30をお祝いしようというコンセプトが素敵で、メンバーは全員女性であることを知り参加を決めた。
久しぶりに履いたルブタンに足を痛め、時たま鏡に映る自分に似合わないなぁとため息をつきながら金曜日の渋谷の街をふらつきながら歩いて会場へ。
…やっぱりキラキラしているなあ、と思った。
10人ほどの集まりだったが世にいうアラサー(オンサー?)とはいえ、みんな肌も綺麗で着こなしも上品で、正直街中で会ったら同性の私でも2度見する美貌の持ち主ばかりだった。
初めて会う子がほとんどだったので自己紹介から始まるが、そこで圧倒的な安心感を覚えた。
その理由はそれぞれの紹介が、「学校名」や「会社名」での説明ではなく、今どういう仕事をやっていて、どういうキャリアを歩んできて、休みの日は何をしているか…と言った人となりの話ばかりだったからだ。
これは私が社会人になってから、つくづく考えていたことだった。
メキシコに留学していた頃は初めて会う人に(海外では、友達と2人で会う約束をしていても友達や兄弟、親まで連れてくることもあって5人は軽く超える人数が集まる)お互いをどういうことを勉強している、だとかどんなことができる、といった「人となり」でお互いを紹介しあっていた。
日本に帰ってきて、特に社会に出てからは初対面の相手に出身大学名や会社名でお互いを紹介し合い、地方の大学の人などが「私なんてそんなたいそうな大学出ておりませんで…」を枕詞にしているのを聞いてものすごい違和感を覚えたことがあるのだ。
久しぶりにお互いの「人となり」を紹介し合う場があってとても安心した。
長い時間をかけ、時間も忘れるほど夜が更けるまでみんなで色んな話をした。これまでどんなことを考えて、どんなことに取り組んできたのか。成功も失敗もあってどういう経歴で今ここにいるのか。
そう。私が必要だったのはこんな時間だったんだ。と、気付く。
30になって3ヶ月間、これまでの楽しい思い出も厳しい思い出も出会いも別れも夢も試練も全部ぜんぶ何のためだったんだろう?って考えて
答えなんか出なくてこの先なに目指していこうってずっとぐるぐる無駄に思考を巡らせていたのだけど
何かを目指すとか何者かになろうとか型にハマった理想を机上で言語化することに一生懸命になることには意味がなくて
自分が思い描いた世界に近づくために顔あげて1日1歩でも震えてでも、歩き出すことの方がよっぽど大切だって気付けた。
今ここにいる事実は変えられないし、これまであった良いことも悪いことも全部自分が通った道。
大事なのは今いる場所じゃ無い。今どこを向くかだ。
こんなにも素敵な同世代の女性達が、それぞれの今までを背負って前を向いて将来の話をしていることにたくさん勇気をもらった。行って良かった、と思えた。
家に帰り思い出に浸りつつも玄関でルブタンの靴を放り投げてぼんやり考える。
高い靴に履かれるんじゃなくて、自分に合う靴をとことん履きこなそう。
貪欲に生きたいけど、全部欲しいものが手に入る訳じゃない。
自分に合うもの、好きなもの、心から願うものを厳選して手を伸ばしていこう。
この場を借りて、30を汗かいて生きる(生きた)全ての女性に拍手を送りたい。