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結婚は、手段か目的か。
目的と手段の取り違えこそが人生が上手くいかない(と思ってしまう)真因と言いきってもいいのではないかと思うほど、この問題は深刻である。
結婚相談所に大金を払い込み、「絶対に今年結婚する。夢は専業主婦だから」と言い切って登録からわずか半年で結婚した友人を見て初めは清々しい、かっこいいとすらと思った。
しかし結婚することや専業主婦になることが目的になっていて、
その先の人生は特に考えていないということを聞いてかなりの違和感を覚えた。
自分は、ずっと結婚が”手段”だと思っていたからだ。
この人と結婚すれば、この水準の生活ができるし子供だって余裕を持って育てることができる。
この人と結婚すれば、生活に余裕はできないかも知れないけど、家事を分担すれば私が好きな仕事を続けられる。
結婚相手も含めてあくまで手段、ひとつのシナリオに出てくる登場人物でしかなかった。
しかし30手前で初めてこの人となら結婚したい、と思える人と出会い、
彼の目指すものに私のスキルや経験が役に立ちそうだと思い
この人を支えることを人生の目的にしていいかも、そう思えた。(結果その人とはうまくいかなかったが)
けれど同時に、それって自分の将来を真剣に考えることを放棄するための言い訳なのかも?という事にも気が付いてしまった。
…仕事と構図がおなじだなあと思った。
その会社で働くのはお金を稼ぐためや自分の成長のためなのに
いつのまにか働くことが目的になっている人を見かけるとお節介にも「あなたなんのために働いてるの?」と聞きたくなることがある。
種類は違うが、SNSもそうだ、と思う。
社会と繋がりをもつこと、知り合いや友人とお互いの状況を知る、コミュニケーションのプラットフォームであり、手段であったはずのものが
マーケティングの収益を稼ぐため人の注目を集める、という商業的な目的はさておき
SNS上でキラキラ映るために生活する、行動する人も周りを見渡すと(インフルエンサーでなくても)結構いる。
SNSに自分の生活を映すのではなく、なりたい自分にSNSでキラキラと着飾った姿に対して、”ふさわしい”人間になれるような行動をする。
かなり話が逸れてしまったが、
改めて、目的と手段の混合が1番危ないと最近つくづく感じる。手段だったものが目的になって結果幸せ、という場合も往々にしてある一方
目的と手段の混合にうっすら気付きながらも、見て見ぬ振りをする、考えることを放棄すること、これはかなり危ない気がする。
なぜなら手段であれば、失ってもやり方を変えればいい。けれども目的は、大小にもよるが失ってから次の目的を見つけるのはなかなか難しいからだ。
今夢中になっているそれは、
人生におけるWhatなのかHowなのか…
必ずしも全ての行動、道筋に位置付けをする必要はないが
ちょっと上手くいかない時はそう自分に説いてみるようにしている。
失ったものが大きい気がしても、それはあくまでも手段でしかない場合であれば
目的、に照らして考えれば代替手段が意外に簡単に見つかる可能性も高い。
絶望した時こそ、心から自分が欲しいものが何か考えてみたい。