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三期生曲に見る作詞家の視点——櫻坂46『何度 LOVE SONGの歌詞を読み返しただろう』

君に向かって 全否定してやりたい

Start over!

コミュニケーション能力なんて
全くなくて どうすればいい?
知らん 知らん 知らん 知らん

承認欲求

あんたを見てると腹が立つ 一瞬 殺意さえ浮かぶ

何歳の頃に戻りたいのか?

2023年後半からの彼女たちが歌う詞は、怒りや苛立ちに満ちている。『Start over!』『承認欲求』では2コーラス目に差し込まれていたが、『何歳の頃に戻りたいのか?』では1コーラス目からより強い言葉で発せられる。この怒りの源泉はどこにあるのか。
そして「怒り」の感情は、三期生曲にも書き込まれる。

僕も LOVE SONGの歌詞を書いてみたくなった
思い通りにならない気持ちの行き場
それはきっと怒りに満ちてるだろう
だって愛は なんて理不尽な情熱なんだ?
冷静に歌詞だけ読むと気づいてしまう
好きになったって 叶うことはない

何度 LOVE SONGの歌詞を読み返しただろう

このフレーズ、個人的に櫻坂46のこれまでの歌詞の中で一番じゃないかと思う。
本楽曲のテーマは「ラブソングの歌詞を書く」こと。それは作詞家がなぜ詞を書くのかの問いそのものである。歌詞の上では、思春期の恋心といったヴェールに覆われている。しかしその内面には、愛とか恋とかを超えた世の中のさまざまな「理不尽」に対する「怒り」があり、それが創作の原動力となる。作詞家の思いがほぼそのまま表出している一節といえるだろう。

5thシングルのカップリング曲『魂のLiar』では「誰かの人生変えてしまうぐらい強烈な歌を歌いたい」と叫ぶ。『魂のLiar』の一人称は欅時代から続く「僕」ではなく「俺」だ。全体的な口調から「僕」よりも「俺」がしっくりくるけど、わざわざ女性アイドルグループに「俺」を一人称にした曲を歌わせる必要はない。この「俺」は作詞家本人と考えたほうがすっきりする。それ以降の楽曲群は、「怒り」の感情をストレートに噴出させていく。『BAN』のような神様への懇願や『流れ弾』のような討論でもない。『摩擦係数』や『断絶』での干渉でもない。相手に否定を突きつけながら、より強い肯定へと誘う。
今から思えば、この詞は作詞家自身のマニフェストである。

三期生曲に表れた「怒り」は、これまでの表題曲群に書き込まれた怒り・苛立ちとは違う位相にある。『Start over!』や『何歳の頃に戻りたいのか?』では相手に対する感情だが、『何度 LOVE SONGの歌詞を読み返しただろう』の「怒り」は自分自身の中に見出される。この「怒り」は、気づきだ。

夜が明けちゃえば 記憶喪失

何度 LOVE SONGの歌詞を読み返しただろう

これまでは、言葉にならないモヤモヤに対して気づかないふりをしてきたし、朝になれば記憶喪失のごとく忘れられた。でも「自分のこの想いをわかって欲しいと 好きになった夜 眠れなくなる」とき、この「怒り」の感情に気づく。「怒り」自体はネガティブな感情だが、心よりも身体に訴えかけてくる能動性でもある。作詞家にとっては創作への、彼女たちにとっては表現することへの活力となる。「LOVE SONGの歌詞を書く」という行為によって、歌詞の主人公「僕」に、作詞家本人と表現するメンバーたちが重ねられる。
でも、どれだけ情熱があっても、この「理不尽」さをは解消することは到底「叶うことはない」。思い通りにならない「怒り」と冷静な諦めを繰り返しながら、人は生きていかなければいけないのか?

でも恋をしてみてわかったんだ
人は何のために生きるのか?

なぜ 恋をして来なかったんだろう?

きっと人は誰も同じなんだな
こんな歌詞を書いた誰かの経験だ

何度 LOVE SONGの歌詞を読み返しただろう

『なぜ恋』と『何LOVE』はタイトルだけでなく、歌詞の中身も連動している。かつて一・二期生たちが気づいた感情を、三期生たちに「誰かの経験」として教えてくれる。そして彼女たちも「人は何のために生きるのか」を理解しはじめる。

三期生たちの成長の軌跡を辿っていくと、一・二期生たちが進んできた道を丁寧に追体験させているのがよくわかる(「新参者」のセットリストはその集大成といえる)。小林が卒業コンサートのラストMCで、三期生たちに「傷つく必要がないことで傷つくことはない」というようなメッセージを送ってたが、それは彼女たちを見守るすべての人たちに共通する思いである。

It’s anthem time
心一つ 拳上げろ!
たったそれだけで勇気になるよ
ステージの向こうからはっきりと見える
風と太陽と雨 君を育てたいんだ

Anthem time

『Anthem time』では、Buddies視点から描かれる。客席からステージを見ると、その向こうに風と太陽と雨が見える。実際に彼女たちを育てるのは、この「風と太陽と雨」であり、欅を櫻を育ててきたものである。それは決してやさしい自然の姿ばかりではなく、時には暴風雨だったり、酷暑をもたらす熱射だったりするかもしれない。「君を育てたい」といいながら、「僕」=Buddiesができることは、アンセムを歌いながら、卒業するまで見届け、記憶に残すことだけだろう。それは、作詞家にとっても自らのプロデュースの範疇を超えた何か大きな力が必要であることを物語っている。

『マモリビト』で感じた「終わり」の感覚は、「僕」や作詞家の有限性から来るのだろう。私たち一人ひとりは有限だけど、櫻の木はずっと続いていくのだ。


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