終わりのはじまりの、終わらない物語のはじまり——櫻坂46『マモリビト』
MVのイントロから歌い出しまでの30秒でもう前作を超えてきたと確信する。
ここはスタジオの倉庫だろうか。舞台の書き割りや小道具が雑然と放置されている空間で、薄暗い照明のもと、まだ何者でもない彼女たちが踊る。やがて月の光に導かれるように迷いを振り切り、朝日とともに自分たちが「マモリビト」であることを受け止める。何より小島の朝ドラヒロイン感がすごい。そして、歌詞のとおり、誰一人欠けてはならない11人だ。
終わりのはじまり
デビューして1年もしないうちから、卒業だとか後人だとか「終わり」から語られる世代がこれまであっただろうか。
三期生を応援する私たちは、彼女たちがどんな困難も乗り越えてまっすぐに成長してほしいと思ってるとともに、過度な期待と重圧を押し付けているかもしれない。しかし、彼女たちは想像を超えるスピードと角度で成長線を描き、パフォーマンスに昇華させている。私たちはさらに期待するし、未来を託したくなる。
しかし、一・二期生たちの「未来」を考えると、海外進出や自力での東京ドームetc.……みたいなヴィジョンの話になるのに、三期生たちの「未来」を考えると何故か「終わり」の話になってしまう。
彼女たちは「物語」を生きている。それはデビュー目前の合宿を描いたドキュメンタリーからはじまった、成長と継承の「物語」だ。それがあまりにもドラマティックだからこそ、いつかくる「終わり」を想像してしまうのだろうか。彼女たちを好きになればなるほど彼女たちの終わりを思わずにいられない。
これは欅坂にあったような明日世界が終わってもいいような刹那性ではなく、有限の世界でどう生きるかという問いがある。そして、その有限性は、これまでの櫻坂の楽曲とともに、私たちの現実の生活とつながっているような気がするのだ。
私たちのほとんどが夜空の見えない星であり、何かしらのマモリビトである。世界を私たちの代で終わらせてはいけない。そのために自分に何ができるのか考えていこう。やや説教くさいが、そんなメッセージも読みとることができるだろう。
終わらない物語
これまで様々なあて書きをしてきた作詞者だが、本作『マモリビト』では、書き手自身の視点がが入り込んでいるように思う。そこには様々な「終わり」の意識が見えてくる。
AKBや坂道グループのようなアイドルグループのビジネスモデルはどんどん衰退・マイナー化していくのは否めない。2023年に出てきた乃木坂46の公式ライバル、誠実さと強さを名前にこめたという新グループが今後どうなっていくのか未知数だけど、櫻坂三期生は従来の秋元プロデュースのアイドルグループモデルとしては最後の世代、いわば「終わり」のはじまりを象徴している。文字通り“ラストアイドル”みたいな認識があるのでは、と思う。
グループはビジネスモデルを変化させながら、まだまだ続いていくのだろう。でも、彼女たちの世代が卒業するまで、後輩世代が加入してくるまで、またはグループの終焉まで、(書き手である)自分自身は、見届けることができない(生きてるだろうけど、現役ではないかもしれない)という予感がある。書き手自身が自らの「終わり」を、Buddiesや彼女たちの思いとして表出させている。
MVも、一・二期生の舞台が「終わった」あとの風景にも見える。次は私たちの番だ。でも、自分たちはまだ何者でもない。そんな彼女たちに「暴力的な静寂」が襲いかかる。私たちは「マモリビト」として生きていけるか。前作『静寂の暴力』をそのように解釈することも可能だろう。そして、孤独の夜を乗り越えた11人だからこそ、「同じように努力してるのに 咲く花と咲かない花」があることを知っている。
この曲を考えると比較対象に出てくるのは欅坂・櫻坂ではなく、けやき坂『イマニミテイロ』、日向坂『月と星が踊るMidnight』なのだが、日向坂の楽曲はどこかルサンチマンを引きずっているのに、この11人にはそんな劣等感を感じる暇すらない。彼女たちを育てていくには太陽(おひさま)だけでは足りなくて、風と雨も必要なのだ。まったく手がかかる。
欅坂時代から応援してきたファンにとって改名は大きな「終わりとはじまり」であったし、櫻坂になってからも一期生がどんどん卒業していくことに「終わり」を感じて離れていった人もいるだろう。また、乃木坂5期生・日向坂4期生はグループ最初期の空気感をある程度継承しているのに対し、菅井と入れ替わるように加入した櫻坂三期生は「終わった」ところからはじまっている。
いや、そうではない。
私たちは待っていたのだ。
これは決して終わらない物語のはじまりなのである。