[澤田和夫] 聖書で祈る:真理の霊
澤田和夫神父の『聖書で祈る』より、「真理の霊」。
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最後の晩さんのあとのことでした。イエズスさまは、でしたちに、こうおっしゃいました。
「わたしをおつかわしくださったかたのところに、いま、わたしは行きます。『どこに行くのですか』と聞く人は、みんなのうちにひとりもいません・・・。」
どこに行くのですかとおたずねして、イエズスさま、あなたが御父のもとに行くとおっしゃることのすばらしさを教えていただけばよいのに。聞こうとしない人は教えていただけないのでしょう。そしてイエズスさま、あなたを見失った悲しみで、心はいっぱいになってしまうのです。
イエズスさまは、つづけてこうおっしゃいます。
「それどころか、こういうことを話したために、みんなの心は悲しみでいっぱいになりました。でも、わたしのいうことは、ほんとうです。わたしが去るのは、みんなにとって、かえっていいことなのです。もしも、わたしが去らないなら、守護するものはみんなのところにおいでにならないのです。ところがわたしが去れば、そのかたをわたしはきっと送ります。そのかたがいらっしゃると、罪について、正しさについて、審判について、世のあやまちを認めさせます。罪についてというのは、世の人びとが、わたしを信じないからです。」
イエズスさまを信じないということが、どれほど大きなまちがいであるか、失敗か、損失であるかということを、世の人がわかるように、主よ、聖霊をつかわしたまえ。
「正しさについてというのは、わたしが御父のところに行って、みんなは、もうわたしを見なくなるからです。」
イエズスさま、あなたが御父のもとにお帰りになって、そして聖霊をおつかわしになるとき、ようやくわかるようになるのです。キリストは正しかったのだ。主よ、聖霊を!
「審判についてというのは、この世の王者がさばかれたからです。」
十字架上のご死去は敗北ではない。かえって勝利であり、こうしてこの世の王者、サタンがさばかれてしまうとおっしゃるのです。
「わたしはまだたくさんいうことがありますが、みんなのほうでは、いまはまだ、受けとる用意ができていません。そのかた、真理の霊がいらっしゃると、全面的な真実へとみちびいてくださいます。」
そのかたは、神の世界のあるがままをあらわしてくださる霊なのです。そしてそういう神の真実のまっただ中へとみちびいてくださるのです。
「そのかたは、自分から話すのではなく、聞いてはこれを話すのです。そしてこれから先のことについても知らせてくださいます。そのかたは、わたしを輝かしくあらわします。もともと、わたしのものを受けとって、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16・5−14)
ふしぎな、だが、だいじなキリストのおことば。父なる神のところに、神の御ひとり子、キリストは帰る。そして生きる神の世界についての、あるがままをあらわす霊をおくってくださるというのです。おお、至聖三位一体の神秘よ。
聖霊は、心の深いところで、だいじなことがわかるようにしてくださいます。
だれも、われこそ聖霊にみちびかれていると気どってはならない。だがだれもが、聖霊にみちびかれてありたいと、つねに祈り求めるべきです。ほんとうのことを聖霊に教えていただきたいという心をいつももつことがどんなにたいせつなことでしょう。
堅信の秘跡は「信仰を強め、これを正しくあらわすために、聖霊の恩恵を与える。」
そして聖霊のみちびきにすみやかに従えるような素質をさずけるものなのです。聖霊のたまものとはそのこと。
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(沢田和夫著『聖書で祈る』P.19-23 ユニヴァーサル文庫)