[澤田和夫] 聖書で祈る:よき牧者のたとえ
澤田和夫神父の『聖書で祈る』より、「よき牧者のたとえ」。
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ヨハネ第10章(11−16)を、ゆっくりと味わいたいと思います。深い意味があるにちがいありません。
あるとき、イエズスさまはファリザイ人たちに、おっしゃいました。「わたしはよい牧者です。よい牧者は羊のためにいのちをささげる。牧者ではなく羊が自分のものでない、賃金をもらって働く羊飼いは、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げてしまう。おおかみは羊を連れ去って、散らします。その人は、賃金をもらって働く羊飼いで、羊のことはかまわないのです。」
イエズスさまとわたしたちのあいだがらは、牧者と羊の群れのたとえでいいあらわされるあいだがらであるということです。ひとりひとり、ばらばらにイエズスさまについて行くのではありません。羊の群れのように、いっしょになって、イエズスさまについて行きます。そこで教会は「一」であるといいますが、イエズスさまによって「一つ」に結ばれるからです。
イエズスさまはつづけておっしゃいます。
「わたしはよい牧者です。わたしは羊を知っていて、羊もわたしを知っています。御父がわたしを知り、わたしが御父を知っているのと同じです。そして、わたしは羊のために、わたしのいのちをささげます。」
よい牧者が羊をいちいち知っているように、イエズスさまはひとりひとりを知っていてくださいます。そしてひとりひとりがイエズスさまを知るのです。「知る」といっても、ただの「知る」ではありません。「御父」が「御子」を知るという、三位一体のもっとも深いあいだがらと同じような、もっとも深い親密さがイエズスさまとわたしたちとのあいだに実現します。聖とはそのことであって、教会が「聖」であるというのも、イエズスさまにつつまれ、イエズスさまと結ばれることによる聖ということです。この深い親密なあいだがらを実現するためにこそ、イエズスさま、あなたは十字架上に、いのちをささげられたのでした。群れ全体のために、そして、ひとりひとりのために。
またつづけておっしゃいます。
「わたしには、まだこの<おり>のものではないほかの羊がいます。その羊をも、わたしはみちびかなくてはならない。そういう羊も、わたしの声に耳をかたむけるようになります。そして、ただ一つの群れ、ただひとつの牧者となるのです。」
「ほかの羊」。このおことばを聞くとき、まだキリストの教えのことを知らない人たちのことを思うのです。もっと多くの人に、みんなの人びとに、イエズスさまの声がとどいて、ひとりの牧者のもとの、一つの群れが、世界に実現しますように。
教会は「公」であるといいます。どうか、ほんとうに、だれでも、みんなのためのものになりますように。
よい牧者のたとえは、こんなにすばらしく、イエズスさまがわたしたちとともにいてくださるという、教会の神秘をいいあらわしています。
聖ペトロの書簡も読みましょう。
「最愛のみなさん、キリストは、あなたがたのために苦しんでくださったのです。御足跡に従って行くように・・・ご自身は罪を犯さず、御口にいつわりはありませんでした。侮辱されても、侮辱しかえすことはせず、苦しめられてもおどかすこともせず正しいさばきをなさるおかたにすべてをゆだね、御みずから、十字架にかかって身をもって罪をおおうようになさったのは、わたしたちが、罪に対して死んで、正義に生きるためでした。その御傷によって、あなたがたはなおしていただいたのです。羊のように迷っていたのが、いまは、魂の牧者、魂を見守っていてくださるおかたのほうに帰ってきたのです。」(一ペトロ2:21−25)
イエズスさまが、わたしたちのために、苦しんでくださったという神秘、それも、ご自身には罪はないのに。
御あとに従って、わたしたちは、苦しまなくてはならないことがある。そのとき、侮辱されれば侮辱しかえしたくなる。苦しいめにあわされれば、おどかしたくもなる。だが、むしろ、正しいさばきをなさるおかたにすべてをゆだね、人の裏切り、人の侮辱をのりこえて、十字架の神秘に目をむけ、イエズスさま、あなたの御傷によってなおしていただくほかありません。
よき牧者としてわたしたち小羊を見守っていてくださるあなたのところに、きょうもまた、帰ってきました。なんどでもまた、帰ってきたい、帰ってきます。
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(沢田和夫著『聖書で祈る』P.11-15 ユニヴァーサル文庫)