[澤田和夫] 聖書で祈る:復活の力

澤田和夫神父の『聖書で祈る』より、「復活の力」。

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ヨハネによる聖福音書第20章(19−31)を読みましょう。

  一週のはじめの日の夜のことでした。でしたちは、ユダヤ人のかしらたちを恐れて、家の戸を全部しめていました。

十字架のはりつけから三日めのこと。

  そこにイエズスがおいでになってでしたちのまん中に立って、こうおっしゃいました。

  「みなさんに、平和。」

  こうおっしゃって、手と脇ばらとをお見せになりました。

それは十字架のはりつけで傷ついた手と脇ばらでした。

  でしたちは、主を見て喜びにみたされました。すると主はもう一度おっしゃいました。

  「みなさんに、平和。」
  「御父がわたしを送ってくださったように、わたしもみなを送ります。」

  こうおっしゃってから、でしたちの上に息を吹きかけて、おっしゃいました。

  「聖霊を受けなさい。あなたがたが、人の罪をゆるせば、その罪はゆるされて消え、ゆるせないといった罪はゆるされません。」

  イエズスがおいでになったとき、十二人のひとりで、ヂヂモと呼ばれているトマはそこにいませんでした。ほかのでしたちがトマに、「わたしたちは、主におめにかかった!」というと、トマは、

  「わたしは、その手にくぎのあとを見、わたしの指をそのくぎのあとに入れ、わたしの手をその脇ばらに入れなければ信じない」

  といいました。

  それから八日ののち、でしたちはまた家の中にいてトマもいっしょでした。戸がみんな閉じてあったのに、イエズスがいらっしゃってみんなのまん中に立って、

  「みなさんに、平和」

  とおっしゃいました。それからトマにむかって、

  「指をここにもってきなさい。手を出して、わたしの脇ばらに入れなさい。不信仰者ではなく、信仰者であれ」

  とおっしゃいました。トマは答えて、

  「わたしの主、わたしの神!」

  というと、イエズスはトマにこうおっしゃいました。

  「あなたはわたしを見たので、信じるようになったが、見ないながらも、信じるに至る多くの人たちはさいわいである。」

  イエズスはでしたちの前で、この本に書いてないほかの多くの、ふしぎなしるしをなさいました。ここに書いたのは、あなたがたがイエズスが救い主で、神の御子であることを信じ、信じることによって、キリストの名で、生命を持つようになるためです。


このときイエズスさまが、おっしゃった「見ないながらも、信じるに至る多くの人たちはさいわい」というのは、わたしたちのことにちがいありません。「見ないながら信じるに至る多くの人」とおっしゃって、イエズスさまはわたしたちのことを思っていてくださったのです。

自分の目でイエズスさまを見たでしたちと、そのでしたちにつづく教会にみちびかれて、わたしたちは信じます。信じるというしかたで、イエズスさまと結ばれ、イエズスさまの教えと力を受けて心に生命をもつのです。

このヨハネ第20章を、聖体のみ前で、ゆっくりと読みかえしたいと思います。「わたしの主、わたしの神」と叫んだトマのことばを、あらたに申しあげるのです。

そのトマから1200年あとになって、パリ大学の神学者トマス・アクィナスは自分の霊名の聖人、トマのことを思いながら、「われはトマのごとく、御傷を見ざれども主のわが神にましますことを公言してはばからず・・・」の祈りを聖体にささげたのでした。(公教会祈祷文214ページ)

また、このヨハネ第20章の「ゆるせば、ゆるされる」のおことばを読みかえしながら、感動をもって、告解の秘跡へと心をむけるのです。イエズスさまからのゆるし、それが教会に託されている。

告解といい、聖体といい、それはみな「復活」に輝くイエズスさまからの働きかけです。

そして主からいただいた平和をもって「平和!」と互いにいいあうことはどんなにかだいじなことでしょう。
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(沢田和夫著『聖書で祈る』P.7-10 ユニヴァーサル文庫) 

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