[岩下壮一] 聖者の条件
カトリックの聖者とはどのような人間でしょうか。
またどうすれば聖者になれるのでしょうか。
岩下壮一神父の言葉に聴いてみます。
「その為には神以下の所造よりのある程度の脱離が予想される。啻(ただ)に汚れたものからの脱離に止らず、それ自身悪ならずとも、神との一致を妨ぐる凡てのものへの過度の執着を断ち切った境地に達していなければならない。しかもこの脱離が聖と呼ばれうるためには、ストイックの克己ではなく、神への奉仕に向かって献げられたものたることを条件とする。然らずんばこの超脱は、反って極めて道徳的に危険な自負自恃に堕する恐れがある。聖なることの根底は飽くまで神の恩寵の上に置かれねばならぬ。従って愈々(いよいよ)聖なるためには益々(ますます)謙遜なることを要する。聖たるは神への帰依いや深きに由る。故に聖者であればある程、自己の聖徳に就ては無意識であり、反って自ら甚(はなは)だ罪深き者たるの自覚をすら有している。聖なるは己れに由らずして己れに在す神の恵によるとの体験は、彼をして益々(ますます)自己の虚無を感ぜしめる。」(岩下壮一『信仰の遺産』(岩波文庫
P.309-310))
ものごとについての無執着、即ち何事にもとらわれがない事と、神への奉仕こそが、聖者たる人間の特質のようです。
無執着であればあるだけ、より謙遜になり、そして、より一層の神への奉仕が可能になる、ということなのでしょう。