[岩下壮一] 悪魔は何をするか
人生には困難が多い。
個人生活においても、世界情勢を見回しても、多かれ少なかれ困難のない日というのは稀(まれ)であって、それは歴史をさかのぼってみても変わらない。
あらゆるものごとが急速に変化しつつある現代。善悪という価値判断の規範(きはん・ノルム)もまた、容易に見分けが付かなくなっており、人々はそれぞれの道、それぞれの視野において模索しつづけている。
困難や苦しみといった概念と、悪という概念には強い相関がある。
悪とは何か。悪魔は実在するのか。悪魔が実在するなら、悪魔は何をするのか。神がいるなら、なぜこの世に悪が存在するのか。
カトリック司祭、岩下壮一神父の言葉を読んでみたい。
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善に造られたる天使等は、自由の意志をもって神の絶対権を認め、愛をもってこれに服従すべきであった。彼等には最初から神の生命と福楽とに参与し得るための聖寵が与えられた。しかし彼等の一部分は試練に堪え得ないで、己の分際(ぶんざい)を忘れ、自ら神のごとくならんとせしルシフェルの高慢に荷担(かたん)して堕落した。・・・
45 悪魔は何をするか。
悪魔は天主を怨み、人を悪に誘うのであります。
人類に対する悪魔の誘惑
神の絶対性は本質的に独立不羈(ふき)であることを意味するほかに、当然その被造物に対する完全なる支配権を含むものである。
悪魔は自由意志の叛逆(はんぎゃく)的独立によって、神の独立を模倣せんとしたと同時に、その仲間をも同じ叛逆に引き込むことによって、もろもろの霊の上に神の支配権をも私せんと欲した。これ竜とその使い等が共に戦い、共に地上に投下されし所以(ゆえん)であった。天における悪魔の叛逆がその投下されし地上にも継続され、人間の自由意志を神に叛逆せしめ、終始一貫してその簒奪(さんだつ)せる支配権の拡張をはかるのは、けだし当然である。・・・
46 人は悪魔の誘(いざな)いを防ぐことができるか。
人は天主の祐助(たすけ)に縋(すが)れば、必ず悪魔の誘を防ぐことができます。しかもこれを防ぐのは功(いさおし)となります。
誘いに対する保証
しかし人間精神争奪戦において、人間の自由意志の内応のないかぎり、悪魔の支配はもとより成立しようはずがない。このみじめな人間までが、悪魔の誘惑と内心の高慢にそそのかされて神のごとくならんとする時に、彼等は竜とその使い等と運命を共にするに至る。我等は悪魔の誘惑に対しては、「神は真実にて在(ましま)せば、汝等の力以上に試みらるる事を許し給わず、かえって堪うることを得させんために、試みと共に勝つべき方法をも賜うべし」(コリント前書第十章一三)という保証を有している。・・・
善き天使
天使の堕落によって、人間の道徳的向上を妨害する予期されなかった力が策動(さくどう)してきた。生まれ持った欲の重みと断ち切ることのできぬ浮世の絆(きずな)になやむ人の子の運命は、ますます困難になったと言わねばならぬ。しかし、天父の慈悲の深さは、我等をして囲繞(いにょう)して内からも外からも働く善悪の力の衝突が激しくなればなるほど、いよいよ痛感せられるのである。我等を悪と叛逆に誘う悪魔の攻撃に対して、神は我等を助くべき善き天使の群れを用意し給うた。我らが神への奉仕の伴侶として、常に身辺に我を護(まも)る潔き霊を有すとの信仰は、いかに慰め多きものであろう。
かつて一修道女が守護の天使についてのカトリックの教理を説明するのを聞いて、一婦人は眼を瞠(みは)って、「あなたはほんとうにその通り信じていらっしゃるのですか」ときいた。修道女が「ええそうです」と答えると、その婦人は「まあ、なんて詩的なのでしょう」と叫んだ。これは実話である。私はこの話をきいて、この婦人の心根(こころね)のゆかしさを思った。この一挿話でも、この婦人が今の世にあり余る浅薄な新しがりやの唯物論者ではなくて、趣味の豊かなたしなみの深い人であることがわかる。私はこの人が神の現実ーーそれがほんとうの現実であるーーが人間の詩より遥かに麗しいことを悟る日の来たらんことを祈っている。
岩下壮一『カトリックの信仰』ちくま学芸文庫 P.142-146
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悪魔とは、天使が堕落した姿。
天使は人間を超えた諸々の力の持ち主であり、人間精神に働きかけることができる存在。
その強力な働きかけの前に、弱く無防備な人類の心は、容易に影響されてしまう。
天使は神の意志に忠実に、人間の自由も尊重しようとし、人の自由意志を侵害することはしない。そのかわり、通常は「天使」に無自覚な人間精神に対しては、あまり目立つ働きかけはすることができない。
他方、悪魔は神の意志に反逆し、人間の自由意志の尊重など気にも掛けないので、同じように「天使」に無自覚な人間精神に対して、容赦ない働きかけをすることができ、そして実際にしている。あたかも人類全体を呪いに掛けているかのような猛威を振るう。
我々はそろそろ「天使」を形而上の思弁や地上の宗教団体の囲いから解き放ち、直にその存在に耳を傾けなければならない時が、来ているのかもしれない。