[岩下壮一] 望ましい宣教方法

キリスト教では福音を広く宣べ伝えること、すなわち宣教というものを大切にしている。

しかし、ひと口に宣教、福音宣教といっても方法は様々である。

岩下壮一が欧州留学時に、先達ヒューゲルから教授された言葉の中には、望ましい宣教方法に関する次のようなものがあったという。

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顧みれば、岩下は議論によって相手を無理やり納得させることの無益さを渡欧中に恩師ヒューゲルから教えられていた。ヒューゲルが岩下に教えた望ましい宣教の方法とは何なのか、長いが引用しておこう。

“君が君の道に他人をかちえようとするならば、(似而非(エセ)教師が十人の中九人までするように)君自身の結論から始めてはならないという一大事実は、もう今まで少なくとも三十年このかたの私の信念となっている。むしろ君の結論は君の説教の中に暗黙のうちに含まれるようにしなければならない。この説教は全体としてその一般的傾向、その地色において君が全く適正で真剣で雄弁であれば、聞き手の仮説となり、聞き手はそれから君の心中にひめてあった結論をひき出すようになるであろう。君の聞き手はそうしたくなるであろう。なぜなら普通の人間は性質上に反対を好むということほどたしかなことはないからである。そこで君はこの反対心に一つの標的を与えたわけではない。またすべての人は自分の創意工夫のための材料や機会を与えられることを好むことも、同様に確かである。そこで君は、全く現存していたものだが注目される現実としては余りにも遍在的だったものを彼らが発見するようにした。そのものは全く新鮮なもの、読者自身の改善進歩として発見されてくる[デュモリン、1950:18]。”

すなわち宣教者は、読者や聞き手の主体性を尊重し、彼らが強いられるのではなく自ら悟るように助けることに注意をしなければならないという、人間が本来もっている心理的特性を考慮した助言であった。ヒューゲルの岩下への助言は、普遍的な真理を一段掘り下げて現実的な視点から述べているところにその特徴がある。元来「カトリック」という言葉がもっている普遍の意味は、少なくともこうした形でヒューゲルから岩下へ伝えられたといえよう。ともあれ、岩下のバランスのとれた人格から影響を受けたことでカトリックに近づいたのは井上ひとりに限ったことではなく、その頃カトリック研究会の内外で岩下を知る機会のあったプロテスタントたちにほぼ共通した改宗の契機であったといえよう[中尾、1941:58-59]。

輪倉一広『司祭平服と癩菌』吉田書店 P.69-70
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聞き手が自ら真理・真実を発見することができるように助けるという話法は、ソクラテスの産婆術的問答法にも似て、たいへん哲学的である。

上記の助言は、福音宣教に限らず、何かを話す、語る場合には、普遍的に効果のある方法であろう。
 

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