[岩下壮一] カトリックの宗教体験観

宗教というものは、外から見れば、ひとつの思想運動であり文化現象であるが、内から見れば、何よりも生き方に深い関わりをもってくる、ひとつの実践であり、体験であり、自覚である。

そして、宗教が全生活を規定してきたような古代・中世社会とは異なり、世俗的な近代社会に生活基盤をおく我々にとって、宗教体験とはまた一種の非日常的体験でもある。

岩下壮一神父はカトリックの宗教体験観について次のように語っている。

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最後にカトリック信仰と個人の宗教体験とについても、一言しなければならない。プロテスタントは、カトリックが個人の宗教体験を宗教的真理の規範とすることに反対するのゆえをもって、しばしば体験そのものの価値をも否定するかのごとく誤解する。そうして形式的信条を強要するのだとか、信条を観念的に承認するに止まるとか言う。我々は宗教的真理が体験せられ、味得せられ、個人がその内心の事実から真理についての確信を得られるのを否定しているのではなく、ただかかる種類の心証は、その本人には極めて有力な、ある場合には毫末(ごうまつ)の疑念をすら挟む余地なきものであろうとも、それをもって他人に臨むのは、心証の性質上無理であると言うに止る。カトリック信者が自分の体験を振り回さぬところから推して、彼等に宗教的体験なしなぞと断じたら、それこそ大間違いである。

試みに真面目なカトリック信者の面前で、聖体におけるキリストの実在やミサ聖祭における祭壇上のその臨在をなんらかの理屈で否定してみるがよい。彼は多くの場合、笑って答えないであろう。それは彼の父母は彼を愛せず、彼の兄弟は彼を識らずと他人が言うのとに等しいからである。彼が多少なりと心霊生活に深入りした者であるならば、イエズスは彼にとって、この世のいかなる愛にも比ぶるに由なきほどの者であるに相違ない。人間愛のいかなる言い表しや形容をもってしても、未だ足らざる程の何物かが、彼の胸底に燃えているであろう。朝まだき、祭壇の前に跪いて聖餐の卓に連る時、あるいは静かなる夕の祈りの間に、もしくは夜半の目覚めに、その昔エンマウスの村さして旅せし弟子のごとく、「我等の心は胸の中に熱したりしにあらずや」(ルカ聖福音書第二十四章三二)と叫ばぬ者があろうか。・・・

・・・カトリックの態度は極めて慎みぶかい。所詮(しょせん)我々にとっては、心の中のことは神を相手のロマンスであるから、これを衆人環視の中にさらけ出すことは何となく憚(はばか)るのである。「汝と我」とで沢山である。その限りにおいて、色彩こそ異なれすべての信者に共通の事なのだから、特に書き立てたり吹聴(ふいちょう)したりする必要を感じない。また自分の体験がそれ程特殊なものだなぞいうプリテンションを持ってはおらぬ。またそんなうぬ惚(ぼ)れがもてようはずもない。我々は数限りもなき聖人伝を有する。それが最高度のカトリック宗教体験の記録である。・・・我々は自分の修養のためにそれ等を読む。そうして常々自分等の宗教生活が、いかに浅薄であるかを痛感している。「私の体験によれば」なぞと、大きな顔して言えたものではない。我等は教会から、聖者の貴き体験を可能にした信仰とその実行の方法とを教えられ、祈りと秘蹟との裡(うち)にこれを日常生活に応用する力を汲むのである。

日曜礼拝の場所としての教会は、いわば学校である。学校で学んだ事を人生に活用する。日曜の祭式は、その原動力を供給する。だから牧師や長老の体験なぞを拝聴する必要はない。それは彼等のことで、わが事ではない。カトリックは「これからだぞ」と思って、日曜日に教会の門を出て浮世にかえる。彼の宗教生活は教会内に限られない。

・・・カトリック信者にとっては、祭壇に立つ司祭は、日本人でも外国人でも、雄弁でも、訥弁(とつべん)でも、少しも差し支えない。彼がいかにその代表する大司祭キリストにふさわしくあるべきかは、彼自身の良心の問題である。信者は彼の良心にまで立ち入らない。要は彼が敬虔に聖祭を執行し、忠実なる神の奥義の分配者であればいいのである。人間的才能の有無は問題ではない。・・・我等は主日の礼拝に際して、活けるキリストにきき、活けるキリストに物語るのである。

岩下壮一『カトリックの信仰』ちくま学芸文庫 P.686-690
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日曜日のミサ聖祭、聖体拝領における個人的体験、それはキリスト者であれ、キリスト者以外であれ、その場に参加した人ごとに、実に人それぞれであろうと思う。

何かを感じたという人、何も感じないという人、日によって違うという人、その時は何も感じなかったが時間をおいてから何か変化を感じたという人など、その人のコンディションや体質によっても色々であろう。

しかしそれら様々な一時的現象面だけに注目するのではなく、あくまで活けるイエス・キリストからの静かで底深い<原動力の供給>にこそ、心の目を向けて行きたいものである。

 

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