いのちの尊厳に仕える
日頃常に、という訳ではないが、教皇フランシスコのtwitterを見ることがある。
短文のため読みやすく、負荷もかからないのが、忙しい身には助かっている。
@教皇フランシスコ 2018年2月11日「病者の皆さんは、その弱さにおいてつねに愛され、その犯すことのできない尊厳において尊重されるべきです 」「May the sick always be shown love in their fragility and respected in their inviolable dignity.」
https://mobile.twitter.com/chuokyo_pope/status/962684706574688256
@教皇フランシスコ 2018年2月12日「人間のいのちのために仕えるということは神に仕えることであり、母の胎内にあるいのちから高齢者、病者、苦しむ人まで、すべてのいのちに仕えることです 」「To serve human life is to serve God and life at every stage: from the womb of the mother, to the suffering and sickness of old age.」
https://mobile.twitter.com/chuokyo_pope/status/962866862299086850
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「いのち」というものは独自の尊厳があるように思われる。
それは生命あるもの全てに、それが「ただ生きている」というだけで、独自の尊厳を与える。
それは母の胎内にある命から、高齢者のいのち、病者のいのち、苦しむ人のいのち、そして更に人間以外の生物のいのちまで共通し、また命の連鎖を通して共有されている。
その尊厳を見出し、それに仕えること。
そこには、いのちのいのちに対する義務(法:ダルマ)があるだけであり、いわゆる奉仕活動に伴いがちな優越・劣等の感情、あるいは見返りを期待する感情が入る隙はない。
「神に仕える」ということの意味を探る上で、「すべてのいのちに仕える」という態度は根本的であろうと思う。
またそれこそが「お金を稼ぐ」という意味以前の、人間の本来的な「仕事」であるのかもしれない。