信仰の錯覚
神を信じることは正しい、とは言えるかもしれない。
しかし、神を信じている自分が正しい、とは決して言えない。
それは錯覚であり、自己欺瞞であるが、混同が起きやすい事実でもある。
そして自称「信仰深い人」は無自覚に人々を傷つけてゆく。
自分の信仰は本物であって、自分にはそんなことはない、と確信を持って言えるなら、その人はきっと周りを苦しませている。
自己流の信仰基準を、普遍的なものと錯覚して、陰に陽に他者に押し付けてゆく。
そして社会的関係において立場の弱い者は、容易にその犠牲となる。
自己の信仰の正しさに囚われている者にとって、その犠牲者の存在は奇妙にも目に入らない。
たとえ苦しんでいる姿を目にして、憐れみの感情すら示したとしても、それは何か別の理由によって苦しんでいるのであって、原因が自分自身にあるとは決して思わない。
キリスト者にとって神を信じることは、イエス・キリストを信じることに他ならない。
そしてイエスを信じるとは、イエスの教えを生きることである。
イエスは99匹の羊を置いて見失われた1匹を求めて、ひとり自ら出て行く。
99匹を守るために1匹を犠牲にするのはやむを得ない、とは言わない。
隣人を自分のように愛せよと説き、友のために自分の命を捨てることほど貴いことはない、と教えた。
そこには目の前の相手と<共に生き、共に死ぬ>覚悟が波打っている。
イエスの生涯には、聖なる自己犠牲が貫徹されている。
今、目の前にいる相手のために、自分の人生をどれだけ与えることができるのか。
己の肉と血を裂いて分かち合うように、それは痛みを伴う。
この世的な見返りは何もなく、見返りどころか、損失ばかりにすら見えることもある。
イエス自身が、結局この世的には何者にもなれず、三十半ばにして死んでいった。
イエスは、人間が神を信じることの正しさを、ただ証(あかし)した。
そこに人間の救いがあることを証した。
その証を、自らの救いとして受け取ることができた時、ナザレの人イエスは、<私>にとってキリスト(救世主)となり、聖書は<私>にとって福音(喜びの音信)となる。