旧約の読み方

聖書には新約聖書と旧約聖書があり、イエス・キリストが登場するのは新約聖書の方である。

キリスト教の聖書と言いながら、旧約聖書にはイエス・キリストは登場せず、預言者による未来のメシア降臨の予言あるいは待望があるのみである。

当然のことながら、旧約聖書とは本来ユダヤ教の聖典であり、ユダヤ教にとって「旧約」という概念は無く、今でも唯一無二の聖書である。キリスト教との混同を避けることが目的という訳ではなかろうが、ユダヤ教の聖典を、ヘブライ聖書または端的にトーラーと呼ぶことも多い。

聖書の読み方というのは、文学、人生訓、神話、歴史、科学など様々であり得るが、これをひとつの霊的旅路の導きとして読もうとする時、(旧約)聖書に対するキリスト教徒とユダヤ教徒の態度は自ずから異なったものになってくる。

キリスト教出現後のユダヤ教の本を読んで、とても新鮮に感じることは、これでもかという位、自由自在に聖句が引用され、また深刻と言えるほど深い人間洞察と霊的達成の高みを指し示しながらも、イエス・キリストと新約の物語が全く存在しないことである。

そこでは同じ聖書を語りながら、イエスを全く必要としていない在り方がある。

同時代人として現実世界では互いに意識しあっていたにも関わらず、宗教的には閉じた世界、自己完結した世界であったとも言える。

他方、キリスト教では、新約聖書のフィルターを通して旧約聖書は読まれることになる。

旧約を読む時には常に新約が、つまりイエス・キリストが意識されている。

イエスという鍵無しには旧約聖書の本当の意味は分からないという立場に立つ。

それは同時に、今を生きる一キリスト者として、<私>はどう旧約を読むかという問題にもつながっている。信仰の次元と言ってもよい。

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現代と旧約時代は似ている、と思う。

旧約時代、イエス・キリストを見た者は誰もいなかった。

しかし天地創造の「はじめに言葉が」あり、その「言葉」が神の子キリストである以上、旧約時代にもキリストは存在していたということになる。

現代もまた、誰にも明らかな公の事実として、復活したイエス・キリストを見た者は誰もいない。キリストの再臨を見た者は誰もいない。

しかしその現代でもクリスチャンはキリストの復活を信じており、「キリストは今も生きておられる」というのがキリスト者のリアリティである。

そのようなアナロジー(類比)で見るとき、「イエス」不在の旧約に「先在のキリスト」の働きを読み込むことは、同じく「イエス」不在の現代に「復活したキリスト」の生きた働きを読み込むことに結びつく。

そして旧約の果てにキリストの誕生が歴史的に実現したように、この時代の果てには歴史的な出来事として「キリストの再臨」が待望されることになる。








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