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「海」

 残暑が残る9月の終わり、それは本当に唐突だった。
ただ普通にREALITYで推しの配信を見ていて、途中でコラボに上げてもらってから雑談していて…。


ちゃ『1週間後さ、そっち遊びに行っていい?』

リス「えっ」


 この落ち着いている中世的な声の女性は「ちゃ」、REALITYで毎日配信を継続している私の推しだ。
髪色から目の色、ガチャで手に入れた服を器用に使いこなし、とにかくセンスが良い。
男にも女にもなるけど声は変えず、なのにしっくりと来る、つまりは美声。
容姿と声とセンスでさえ完璧なのに、ちゃはとにかくリスナーを弄ぶ。
こんなの推さずにいられるか!

 そんなちゃが、こちらに来たいというのだ。
声がひっくり返る。


リス「え、でも、あの、
リアルで会っていいの? 私が?」

ちゃ『ちゃが行くって
言ってるのに断る理由ある?』


 得意げな声に思わず舌を噛む。
チョロさのカケラもない聡明な私は予定をバッチリ開けた。


 そして1週間後の朝、福岡空港まで迎えに行く。
どんな容姿で来るんだろう?
私変な格好してないかな?
モヤモヤと色々考え込んでしまう。
するといきなり肩をポンっと叩かれ、「ぴょい!?」と変な声を出してしまった。


ちゃ「リス…だよね?」

リス「はい…リスです…!」


 いきなり現れたちゃ、今日は女性だった。
肌が白くて足が長くて胸も大きくて、背も170くらいあるんじゃないのこれ?
とにかく「綺麗で完璧な女」を体現してるような人で、会っただけなのに逆上せてしまいそうだった。

 ちゃはそんな私を面白げにクスクスと笑い、いきなり手を繋いできた。


ちゃ「レンタカー借りるんよね? 行こ?」

リス「あの、ちゃ、手ぇこれ…」

ちゃ「女同士なんだから良いじゃん。
ちゃが繋ぎたいから繋ぐの」

リス「オタク死ぬ! オタク死ぬよ!」

ちゃ「死んじゃダメ。ちゃのために生きて」


 死にかけながら2人で手を繋いで、近くまでレンタカーを借りに行った。
レンタカー代は私が出した。
推しに出させるわけにはいかない。

 借りた軽自動車の運転席にちゃは乗り込み、私も助手席に乗る。
ちゃは仕事でよく運転をしていて、元よりちゃの運転で出掛ける予定だった。
まるでデート、心臓はずっと高鳴っている。


ちゃ「まずどこ行けば良い?」

リス「あ、経路出すね。道のり長いけど大丈夫?」

ちゃ「全然いいよ。ドライブ楽しも!」


 いつもオタクを弄ぶイケ女って感じなのに、いきなり無邪気になるちゃにドキッとした。
女性らしくはあるんだけど、たまに「女の子!」って感じの顔を見せてくる。
エンジン音と共に出発する車、運転に集中し始めるちゃの横顔は先ほどの女の子らしさとは打って変わってカッコイイ。

 ちゃの顔をジッと見つめているわけにもいかないし、スマホは経路を出してて弄れない。
バッグの中を漁って飲み物を2つ取り出す。
カフェオレと綾鷹。


リス「ちゃは綾鷹でいいよね?」

ちゃ「ありがとう! 飲み物助かる」

リス「ふふっ配信じゃないんだからぁ」

ちゃ「ほんまそれな。
てか苦手な飲み物よく覚えてたね」

リス「ちゃの苦手な飲み物は知ってたけど好きな飲み物はお酒しか聞かなかったから分かんなかった。ごめんね」

ちゃ「じゃあ明日までの時間で、
もっとちゃのこと知って」

リス「その返しはずるい」


 最初は緊張したけど、無事に和やかな雰囲気でドライブデートを楽しめそうだ。






リス「そこの看板がある坂を登って」

ちゃ「ここね、了解」


 ちゃが車を走らせて1時間半、周囲は福岡市内とガラッと変わり田舎の景色に山道、車も人もほぼいない。
福岡県糸島市、目的地は「白糸の滝」。
福岡市内でも良かったけど、それなら一人旅でも楽しめてしまう。
地元の人間と一緒じゃないと楽しみにくいプランで今回は組んでいる。


ちゃ「この辺の海すごい綺麗だね、テンション上がるわ」

リス「糸島は景色もそうだし、
乳製品とかブランド豚も有名なんよね」


 整備をされた山道が楽しい。
先程まで少なくなっていた車が徐々に増えてきて、白糸の滝に着くと駐車場の4分の3は車で埋まっていた。


ちゃ「あれ、平日なのに車多い。
さっきまでどんどん減ってたよね」

リス「白糸の滝もなんだけど、更に上に登ったところにあるフォレストアドベンチャーも有名だから、この辺は車が絶えないんだよね」


 2人で車を降り、小さな坂道を登ると大きな滝が見えてきた。
大勢いる中ほとんどの客は釣り竿を持ち、滝から続く水路に向かって釣り糸を下ろす。
看板には「ヤマメ釣り2500円」と書かれている。


ちゃ「釣り竿…ヤマメ釣りできるの!?」

リス「制限はあるし有料だけどね。
釣ったら塩焼きにしてくれるよ」

ちゃ「気になるけど…人結構並んでるね」

リス「釣れても食べるまでに並んだり焼いたりで時間かかるんよね…。
上にあるお食事処で食べてから滝見ない?」

ちゃ「そうだね。あ、階段危なそう。手、繋ぐ?」

リス「えっ」


 食事処までの短い階段、ちゃは手を繋いでエスコートをしてくれた。
案内しているということ、そして特に付き合ったりはしてない配信者とリスナーという関係性を忘れるほどには浮かれてしまう。
きっと耳まで赤くなってる。
他の仲良いリスナー達に申し訳なささえ感じた。

 ヤマメ釣りがメインみたいなところがあるせいか食事処は人が少なく、従業員も呼ばないと出て来ない。
ここまでは白糸の滝の「らしさ」だ。


ちゃ「せごしって何?」

リス「ヤマメの刺身!
小骨は多いけど美味しいよ」

ちゃ「え、食べたい」

リス「私も食べたいけど松だと多いな…」

ちゃ「松と竹にして、お刺身シェアしない?」

リス「そうしよう! すみませーん!」


 料理を注文してしばらく談笑していると、2人分の盆が運ばれてくる。
ヤマメの塩焼き、ヤマメの唐揚げ、ヤマメの南蛮煮、そしてシェア用のヤマメの刺身・せごし。
せごしだけ盆から机の真ん中に出し、2人で手を合わせる。


「「いただきます!」」



ちゃ「美味しかった〜! ヤマメすごいわ」

リス「結構満腹になるよね。小さい魚なのに」


 幸福感で満ちたお腹を抱えて店を出る。
ちゃと笑いながらヤマメ料理の話で盛り上がりつつ、すぐそこのメイン・白糸の滝の下へ行く。
大きな崖から岩と岩とが支え合って水流が落ちていく様は、それは美しくも圧巻だった。


ちゃ「飛沫が激しくなくて綺麗だね」

リス「本当。綺麗な滝…」


 落ちる水流を眺め、少しだけ気分が落ち込む。そんなに悩んでるつもりはなかったのに、どうしてか海が見に行きたくなった。
元々はゆっくり佐賀観光をして旅館に行くつもりだったが、どうしてもちゃを連れて行きたくなったのだ。

 ちゃの細い手をぎゅっと掴み、彼女の薄色の瞳孔を恐る恐る見上げる。
優しく見下ろすちゃは優しく微笑み、いつもの落ち着いた声で私に問い掛けた。


ちゃ「次、どこ行く?」

リス「…海、行かない?」


 ちゃは無言で私の手を引き、車までエスコートしてくれた。
推しとのデートなのにこんな気持ち、良くない。
今はちゃの手の柔らかさに集中した。



 糸島の海沿いを車で走らせ到着したのは、二見ヶ浦の海。
インスタ映えスポットが多く、白糸の滝と並んでここも観光客が集まる場所。
車から降りると潮風がちゃの重く綺麗な髪を絹のように靡かせていて、太陽光も合わさってキラキラと見えるその姿に見惚れた。

 2人で車道を横切り、砂浜に降りる。
海には大きな白い鳥居、奥に二つの大きな岩が浮かび寄り添っていた。
それを見たちゃは目を見開き、深い溜息を吐き出す。


リス「二見ヶ浦の夫婦岩、私も最近知ったんだ」

ちゃ「なんかジンクスありそう。凄い綺麗」


 夫婦岩に近付くことはせず、しばらく無言で眺める。
自撮りをする今時な女性の3人組、まだ子供が幼い4人組の家族、手を繋いで夫婦岩を指差すカップル…、私達はどんな風に見えてるのだろう?

 ちゃはせっかく遊びに来てくれたのに、いきなりだから困惑してるかもしれない。
私は腹を決めて口を開いた。


リス「ちゃはいつだって自信に溢れていて、
自分のために生きれてて、本当に尊敬してる」

ちゃ「リスはちゃのこと、
すごく好きでいてくれるもんね」

リス「うん、大好き。
ちゃ以上に好きな人なんて居ないよ。
…だからどんなに嫌なことがあっても、
ちゃみたいな人になりたいと思ってたの」


 自分の胃を思わず両手で抱いて俯く。
情けない自分を見せる恥ずかしさとか、好きな人に好きと面と向かって言う緊張とか、いっぱいいっぱいだった。


リス「この前職場の人に告白されたの。
誰とも付き合う気もなかったからお断りさせて頂いたんだけど、そしたらブスって言われて…」

ちゃ「は? 何そいつ、ないわ」

リス「本当にね。
そう思えば良いのに、ブスって言葉がずっと頭の中グルグルしててね。
ちゃを胸張って好きって言えるような人になりたいのになれなくて、それが嫌だった」

ちゃ「ちゃが会いに来たリスナーなんだから、
もっと胸張ってよ。リスにいつも助かってる」


 ちゃはそう言いながら私の手を握り、細い指を絡ませてくる。
数秒前まで泣きそうだったのに、唐突な恋人繋ぎで頭が爆発しそうなくらい体温が上がる。
砂浜で足元が歪んでくるような気もしてきて、もはや大混乱状態。

 全身の毛穴が開いて汗が出てくるのを感じ、恥ずかしくも恐る恐るちゃの顔を見上げる。
するとちゃの方が何か思い詰めたような顔をしていた。
今は好きという感情で混乱してる場合じゃないことを悟る。


リス「…ちゃは、なんで私と会おうと思ったの?」

ちゃ「え?」

リス「ちゃは誰のことも好きにならないし、1人を特別扱いするような配信者じゃない。
ずっと見てたから分かるよ。なのに本当にいきなり…」


 ちゃの配信をずっと見てきたオタクだからこそ、この旅行は解釈違いの塊だった。
とは言っても推しは神様じゃなくて人間だから、口で言ったことを一貫できないこともあるって知ってる。

 今私はリスナーとしてではなく1人の「リス」として、推しじゃない「ちゃ」自身を見たがっている。
我儘にも程があるけど、見ないといけないとも思ったのだ。


ちゃ「…ちゃのこと好きになるリスナーは多いんだけどさ、たまに距離感を履き違えるやつとかいるじゃん。
切っちゃったリスナーもいるんだけど、切るのは私自身なんだけど、やっぱり寂しさはある」

リス「前からちょいちょいメンヘラに好かれるもんね。あれ切ってたんだ」

ちゃ「うん…度が過ぎると思ったらブロックしてる」

リス「ちゃは一切悪くないよ。
そいつがちゃを理解しなかっただけだから…」

ちゃ「だからね、良いリスナーを大事にしたくなった」


 こちらを真剣に見つめるちゃは、少し涙目になっている。
小さい口から溢れるその言葉達に、どれだけの感情が乗せられているの?

 知ることはできないけど、理解しようとすることならできる。
ちゃだって私と同じ人なのに、なんで神格化する人が増えてしまうのだろう。


ちゃ「リスはちゃのこと大好きだよね。知ってる」

リス「当たり前じゃん。
ちゃの声も見た目も生き方も考え方も、全部好き」

ちゃ「…ちゃにしてほしいこと、ある?」


 良すぎる顔に見下ろされ、細い指で顔を触られる。これは試されている。
今、欲を出せば叶ってしまうのかもしれない。
私は…


リス「私は、配信でみんなに好かれてるちゃも大好きだよ。
だから1日でも1秒でも長く、リスナーとして楽しく配信するちゃが見たい」

ちゃ「やっぱ、リスがリスナーで良かった」


 晴れた表情で頭を撫でてくるちゃ。
さっきまでのちゃは、思い詰めたように自分自身を差し出そうとする彼女だったのだろう。
どんなちゃも大好きだけど、推しとして幸せで居てくれるのが最高の幸せだと再認識した。

 潮風でベトベトになった顔でふたりして笑い、私達は二見ヶ浦から旅館へと出発した。


 あれから更に1時間半ほど車を走らせ、佐賀県嬉野市に入る。
無料で入れる嬉野源泉の足湯などもあり、九州では大分県の別府市と並ぶ温泉地だ。

 今日は足湯や飲食店はスルーし、そのまま旅館に入る。
宿泊者として先に名前を書き、ちゃの名前を見ないように旅館内を見渡す。
大きな壺や皿が飾られているのは恐らく佐賀の焼き物だろう。
佐賀県は焼き物も有名どころが多いから。


ちゃ「ありがとう、助かった。部屋行こ」

リス「うん! 旅館素敵やね」

ちゃ「ほんまそれなぁ」


 鍵を貰ったちゃとエレベーターに乗り、部屋へ行く。
部屋は10畳と広く、畳と源泉の匂いを漂わせていた。

 ちゃと2人で荷物を置いて寛ぎ始めると同時に、先程の言葉とは真逆の欲が顔を出して来て一気に緊張する。
それもそう、さっきまでは2人とはいえ外だったものの、今は部屋で2人きり。
触れられてた手に寂しさを覚え、恥ずかしさすらある。


ちゃ「まだご飯まで時間あるよね」

リス「そうだね…?」

ちゃ「温泉行かんか?楽しみだったんだが」

リス「行こう! 行こう!!」


 風呂セットを速攻で纏めて部屋を出る。
ちゃの誘いでようやく目を覚ました自分を責めつつ、変な雰囲気になる前に行動できた自分を内心褒めた。



 大浴場に着くと他の人達はおらず、ゆっくりと入る準備をし、服を脱ぐ段階に入り気付く。
ちゃの裸体を見ること、そしてちゃに裸体を見られるということ。
頭が混乱して体中の毛穴から汗が吹き出すが、ちゃの「先いくよー?」の一言で我に返った。
すぐに服を脱いで、裸体のちゃの背中を追う。

 シャワーを出すと、とろみのある熱い湯が弾ける音と共に噴き出す。
水で少しずつ薄めながら体に当てる。


ちゃ「シャワーあんま出らんな…あっつ!?」

リス「シャワーにも源泉が通っとるんよ。気を付けてね」

ちゃ「早よ言ってくれんか!?」


 談笑しながら体や頭を洗う。
嬉野源泉は強いアルカリ性故にとろみがあり、ソープなどもすぐに泡が立たなくなる。
たまにちゃのことをチラ見しては白く細い躯体に脳が焼かれそうになり、自分が男性でないことを安心しつつもしっかりと生殺しに合っていた。

 シャワーを終え、温泉に浸かる。
滑りが強いからゆっくりと腰を下ろさないと転けてしまいそう。


リス「足元気を付けてね。
ちゃ、よく転けるイメージあるから」

ちゃ「大丈夫大丈夫。ほんまトロトロやなぁ」

リス「肌にめちゃくちゃ良いし、
実質美容液に浸かるようなもんよ」

ちゃ「マジか、しっかり浸かっとこ」


 温泉もしっかりと堪能し、18時を目安に上がった。
私は早めに準備を終えたが、ちゃの長く毛量の多い綺麗な髪が乾くには時間が掛かり、額にじんわりと滲む汗と色素の薄い瞳を眺める。
滲んだ汗はゆっくりと長いまつ毛へ落ちていき、瞬きを早めてしまう姿も可愛い。

 正直自分がキモいオタクであることは誰よりも自覚してるし、それをちゃに見せ過ぎないように気を付けてるつもり。
しかし理由があれ、推しと1日中一緒にいれる状況は呼吸の一つも見逃せないものなのだ。


 こうして推しを眺める以外に何もすることがない時間さえ幸せを感じるし、それをちゃも分かっている。
彼女は恐らく私を待たせていることに微塵も申し訳なさを感じていないし、私がずっときょどっているのも楽しんでいるのだろう。

 ちゃは誰のものにもならないし、ちゃは誰のことも好きにならない。
これまで切られてきたメンヘラ達の気持ちも分からなくはないが、ちゃは先にこのことを公言してる。
特別になりたいとも思わない、ただちゃが楽しく幸せに過ごせていればそれで良い。

 ずっとちゃのオタクでいたいのだ。


ちゃ「髪乾いた。夕飯行こ、リス」

リス「…うん!」


 夜は旅館で出される豪勢な懐石料理に舌鼓を打ち、満腹の状態で部屋に戻る。
部屋には布団がくっ付いて敷かれており、膨らんだ胃がキュッと収縮する感覚を覚えた。

 そんな私の様子を知ってか知らずか、ちゃは荷物を漁り、瓶といくつかのペットボトルを取り出す。
…獺祭(日本酒)と炭酸と水数本。


ちゃ「ちゃんとちゃね、酒持ってきたんだって。
ほら、食べたあとだし飲も!」

リス「ふふっ。じゃあ私も出すよぉ」


 ちゃに続いて自分の荷物を漁り、瓶を2本取り出す。
山﨑12年(ウイスキー)とあさつゆ(白ワイン)、どちらも入手に苦労した。
ちゃに飲んで欲しくて大金叩いて購入できた物。

 行儀悪く布団に胡座を掻き、ちゃには獺祭、私は山﨑水割りを注ぎ合う。


ちゃ「乾杯〜」

リス「乾杯!」


 グラスを軽く叩き合い、晩酌を始める。
薄めの水割りにしてもさすがは山﨑、香りが強くてとにかく美味しい。
スコッチなどに比べたら癖もなく、ウイスキー初心者から上級者まで好む酒。

 ちゃの飲んでいる獺祭も、日本酒の中だと初心者から上級者まで好み易い。
甘い果実のような香りに米の甘味、私も何度か飲んだ程度だけど「美味しかった」という感想はずっと覚えている。


ちゃ「いや、マジで美味いわ」

リス「推しと美味しい酒飲めるって…もう死んでもいい」

ちゃ「ちゃのために生きて?」

リス「生きます」


 しばらくはそう2人でケタケタと笑いながら飲んでいたが、徐々に目を伏せるちゃ。
酒のグラスを畳に置き、重たそうに口を開く。


ちゃ「私ね、海、好きなんだ」

リス「…今日なんとなく、二見ヶ浦でそう思った」

ちゃ「ほんまね、海は好き。
叶うなら海で死にたいくらい」


 淡々と目を伏せてそう言うちゃに近づき、恐る恐る手を握る。
他人の人生なんて知らないし、ちゃの過去を知ろうだなんて烏滸がましいことは思わない。
ただ支えが欲しいときって誰でもあるから、そういうとき肩を貸せる存在くらいにはなりたい。


ちゃ「ちゃさ、長生きしたくないんよ。
40くらいにはさ、もう…」

リス「生きてほしいとは言えないけど…ちゃの選択肢が全てだけど。
私はちゃがいなくなったら寂しい」

ちゃ「知ってる。
でもさ、長生きする理由もないんよな。
アセロマ…って言うんかな、子供もいらんし。
本当にただね、そこで死にたいほど海が好き」


 ちゃの生きる意味をあげられる自信はない。
でもどうせ長生きしようと思えないなら、ちゃとの時間を噛み締めて、私がちゃを記憶に刻みつけていきたい。
海で死にたいかもしれなくても、海はたくさんあるんだ。


リス「だったらさ、色んな海を一緒に行こうよ。
日本中だけじゃない、世界中に綺麗な海はいっぱいあるよ。
色々あるかもしれないけど、ほんの少しでも忘れるくらい綺麗な海をいっぱい探そうよ」


 口を開くたびに涙が出る。
自分の無力さを呪いたい。
ちゃの呼吸の一つ一つが、言葉や考え方の一つ一つ、これらが私を生かしてくれてるというのに。
私はちゃを生かすことはできないのだ。
エゴだとしても、自分勝手だとしても、悔しいのよ。


リス「ちゃ、好きだよ。本当に好き。
私ずっとちゃの声を聞いていたいよ。
…みんなでちゃの枠で楽しくしてたい」


 涙が溢れ、手には力が入る。
ちゃはそんな私の涙を拭い、そしてグラスを持って私の口に持ってくる。
一気に流れ込んでくる獺祭の甘さとアルコールが鼻に来て、つい蒸せてしまう。

 ちゃは咳込む私の口に指を2本入れ、まだ飲み切れてない酒を舌に擦り付ける。
舌も唇もビリビリして、お腹がキュウッと痛い。


ちゃ「リス、目、閉じて」

リス「ちゃ…っ」


 酒のせいだろう、そこから先は覚えてない。
何となく記憶に残っているのは、口内に酒と生暖かいものが何度も滑り込んできたこと、湿った肌同士の触れ合いに安心したこと、骨同士がぶつかって時々痛かったこと。
…薄い皮膚と布団のシーツに、爪を立てた気がすること。

 たぶん夢の話だろう、すごく幸せな夢。
叶わない恋を「推し」という言葉で否定して、明確な形のない好意を伝えられる立場に居座り続ける現実。
ちゃが人を好きにならないのは知ってるし、好きになった人ができたならば祝福もするから。

 どうか明日も変わらない日々が続いて、愛する人の声が日常から、記憶から、途絶えませんように。


 …窓から見える月が綺麗だ。

 …酒と、ほんのり海の味。






リス「…うっ」


 えげつない頭痛と胸焼けで目が覚めた。
窓の向こうはもう明るく、目の前の川が朝日でキラキラと輝いている。
昨日、二見ヶ浦の海で見たちゃの髪の毛のようで、すごく綺麗。

 倦怠感の強い体を無理やり動かしてトイレまで行く。
部屋のトイレを抱え込むようにして便器の中に顔を突っ込み、懺悔と共に上がってくる物を嘔吐した。

 酒が弱いのに飲み過ぎたとはいえ、ここまで酷い二日酔いは久しぶりだ。
酒の失敗で知らない男と一夜を共にしてしまったときぶりの酷さだろうか。


リス「…? ゔっ」


 巡る思考が吐瀉物で遮られる。
いや、これで良かったのかもしれない。
とんでもないやらかしを脳が認めてしまうと、私はそれこそ迎え酒をして自殺を測るのだろう。

 しばらくは情けない声を上げながら昨夜の後悔を吐き出し続けた。




ちゃ「リスおはよう、大丈夫?」

リス「ちゃ…おはよ…!?」

 トイレから部屋に戻り、ちゃに挨拶をする…けども。
めちゃくちゃ男性の姿になっていた。
いや、ちゃが男にも女にもなるのは知ってるけど、今!?
女性の姿のときもきっと反応は変わらないけど、あまりにも容姿の良過ぎる推しに頭が混乱する。

 ちゃの白くて大きな手は私を布団まで誘導し、大人しく座らされる。
水のペットボトルを渡され、言葉よりも先にキャップを開けて一気飲みしてしまう。
濯いだとはいえゲロ臭かった口内が浄化される感覚、水が甘くて美味しい。


ちゃ「起きたら吐いてたからビックリした。
2日目は元々男になるつもりで来てたんだよね、準備楽だし」

リス「なるほど…。お水ありがとう」

ちゃ「ふふっ。男の格好、ビックリした?」

リス「めちゃくちゃビックリしました」

ちゃ「仕返しできて良かった」


 顔が良過ぎて脳死で返事をしてしまう。
声は変わらないのになんでこんなにも合うのか…。
結論から言えば「天才だから」なんだけど。


 貰った水のおかげで徐々に脳が機能し始め、昨夜の夢(?)を思い出して目を逸らしてしまう。
耳まで熱い。
そんな私の反応に気がついたちゃはいつも通り茶化してきたり…はなくて、ちゃも顔を赤くしながら目を逸らす。
その反応を見て一気に脳はバグった。
たぶん自律神経までイカれるやつだこれ。


リス「あの…っと、今何時かな?」

ちゃ「えっと…7時半だね?」

リス「早く準備しないとだよね? 行ってくる!」


 その場から逃げるように洗面所へ行き、洗顔や着替えを終わらせる。
軽く化粧とヘアセットもし、8時前まではあっという間だった。

 ちゃと2人で急いで朝食会場へ行き、ギリギリ8時に到着。
部屋番号の書かれたプレートのある席に着くと、食事が配膳されて説明もされた。


「…と、嬉野温泉湯豆腐になります。
こちらのごまだれでお召し上がり下さいね。
スープまで飲むと美容効果もありますよ」

ちゃ「ありがとうございます」

リス「美味しそう…! いただきます!」

ちゃ「いただきます」


 さっそく小さな土鍋の蓋を開け、嬉野温泉湯豆腐とご対面。
豆腐は源泉でトロトロに煮崩れていて、溶け出しているのかまるで豆乳鍋だ。
端の方には軽く湯葉も浮いている。

 まだちゃと少し気まずい雰囲気があるけど、まずは食事をして空気を戻していかないと。
今日は…えっと…どこに行くんだっけ?

 ごちゃごちゃと考えながらもレンゲで豆腐をすくい、ごまだれを付けて口に運ぶ。
ちゃも丁度湯豆腐を口に運んだらしく、思わず2人して顔を見合わせた。


「「うまっ!」」


 濃厚で旨味の強い豆腐に相性抜群のまろやかなごまだれ、とろみが強くて舌にまとわりついてくる。
あまりの美味しさに2人して笑ってしまい、同時に空気が和んでいくのを感じた。

 今日も明日も、ちゃとは何も変わらず良い関係を築いていけそうだ。

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