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芸術論

私は高校まで電車を利用して通学しており、毎月定期を購入していた(金は親からもらっていた)。

特定されない程度に通学路を開示すると、まず自宅から新今宮駅(新世界や西成などと言われてるところ、通天閣がある)まで電車で向かい、新今宮駅から天王寺駅までJR線で向かう、そして天王寺駅から学校まで一駅、といった手筈である。つまり「家→新今宮→天王寺→学校」という手順となるわけだが、当時ライトノベルと漫画に熱中していた自分は、あろうことか新今宮駅、天王寺駅間の半年分の定期代を書籍代として流用してしまったのである。ここから半年間、私の西成徒歩通学が始まる。非日常を追い求め、わざと定期代を消費しただけであるのだが。

西成は日本唯一のスラム街と呼ばれている。常に町中に悪臭が漂い、昼間からそこらじゅうで老人が安酒を煽りながら将棋を指している、罵声が飛び交う。全く見てられないし聞いていられない。ただ、西成には活気が溢れていた。貧困と醜悪の印象を払拭するための商業施設も近くに見受けられるが、それは私にとっては、美を意識して作られた虚像であった。西成の実像は、ゴミ箱を漁る浮浪者や、突然私に意味不明な怒声を浴びせてくる老人にこそ宿っていた。西成には、あいりん労働福祉センターという建物がある。あいりん労働福祉センターとは、「あいりん地区の日雇い労働者の就労斡旋と福祉の向上」を目的に設置された福祉施設である。その風体は宛ら刑務所を彷彿とさせるつくりとなっており、その重厚さや質量感には私を圧倒するものがあった。私はその在り方に一種の郷愁と感動を覚えた。労働福祉センターやそこで生きる人々の姿は、近くで開催されていた展示で見た葛飾北斎の絵よりも、その頃父が私に鑑賞を勧めていたフェルメールの絵画よりも、余程腑へと突き刺さる、私にとっての芸術であった。

美を意識して作られた作品は積極的に解釈をしない限り、私には感動を与えない。必要なものを配置した結果出来上がった「ただそこにあるもの」が、解釈を必要しない、真の感動を私に与える。

以上が石油化学コンビナートに感動を覚える私の、芸術に対する現時点での向き合い方、態度である。この文章が、未来における私の思想体系の構築の一助となることを願っている。

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